何かのよしあしを判断する時に、それはなぜと考えると自分なりの理由がある。その理由に対して、それはなぜと問いかけると、一段深い理由がある。それをどんどん続けていくと、最後は理由なくよいものはよい、わるいものはわるいというところに行き着く。理由が説明できないということは、ある意味で無意識的に判断しているという言い方もできる。

 新しい何かを考え出さなければいけない時、自分の知識を総動員しても何も出ない時がある。その時に全く新しい考えが直感的にひらめくことがある。それまでの経験を組み合わせて出ない考えが浮かぶのは、ある意味で無意識から考えを引き出したという言い方もできる。

 心の中には自分が意識できない領域がある、ということを前提として話しを続けると、無意識から出た考えも頭の中で言葉になれば意識できるようになる。考えに対して無意識の中から判断が返るとすると、頭の中の言葉は無意識まで届いていると考えてよいだろう。回路で言うとフィードバック系である。

 話が少し変わるが、怒った時に考えたことが、冷静になるとそうではなかったと思うことがある。悲しい時に考えたことについても同様である。感情が本来の考えに影響を与えているのである。欲望についても同じように、欲に目がくらんで判断を誤るということがある。欲望も本来の考えに影響を与える。

 ここで最初の話に戻ると、考えたことは無意識まで届くのであるから、感情や欲望で考えが変わることは、無意識の領域にも影響を与えている可能性がある。その結果、無意識から発する考えも変わってくるということである。もちろん意識的な考えが届くだけで無意識には何も影響を与えないかもしれない。しかし無意識の領域まで知覚できるような方達は、そのような境地に達するためにはまず考えを正しくする必要があると言っている。その方達がウソを言っていないとすると、意識は無意識に影響を与えるのであり、欲望や怒りをコントロールすることで無意識の領域まで変えることができるということになるだろう。

 このブログではそのような方達は本当のことを言っているという立場を取っているし、普通の人が知覚できない無意識のさらに奥は真我に通じているという言葉も肯定している。無意識は現代社会ではほとんど未知の領域だが、意識できる領域よりはるかに広大だと言われている。

 なお私について言えば、無意識はあくまで無意識であって、全く普通の人である。しかし意識できる領域は良くしたいとは思っている。ちなみにそれは、日本人としての倫理規範を守ることでも十分効果があると考えている。自分の経験の範囲では、考えの善し悪しと結果の善し悪しの相関はかなり高い。