インタビュー岩浅紀久さん パレスチナのODAを指揮する | 山ちゃんのブログ

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やまちゃんより感想:ODAを運営している時に、パレスチナの起業家がODAの資金を全部融資として返すといったところは、何度読んでも聞いても涙してしまう。パレスチナ人はなんと誇り高い人だろう。そして、岩浅さんは、ダメ元でも、突撃するという長所もあるし、それを成功させているところがすごい。ぜひとも最後までお読みください。

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 生まれは兵庫県の但馬の自然がたくさんあるところで川や山遊びをしてすごした。

 

 他の人と違うことは父親が兵役拒否をして満州に逃げて終戦になって帰国したことでいじめられたこと。国のやっていることと違う事をして逃げ回って帰ってきた卑怯な家族だといじめられた。いじめられて泣いて帰ってきたら母がみんなよその子は家族が戦争で死んだりして悲しい思いをしてうちは父親が無事に帰国して羨んで色々いうからと言ってその人達のことも考えてみて泣いちゃいかんと言われて、それからこちらの態度がかわったのかいじめられなくなった。

 

 小学校の低学年は川で水遊びをしてたり、うさぎを狩ったりしていた。

 

 小学校四年生の一学期に黒板の字が見えなくておかしいから休みをとって病院に行ってみてもらったら原因がわからなくて、眼科や内科という面からゆっくり調べているうちにほとんど見えなくなってしまって、母親がびっくりして姫路の医者の兄に連絡したらすぐ連れてこいということで翌日に姫路に行った。その時には全盲になってしまった。叔父が紹介してくれた眼科の専門員の所に行ったら脳の脳水がたまって視神経を圧迫しているから水をとらないといけないといって、何回かに分けて手術することになり、4月半ばに入院することになった。11月まで入院していた。8月終わり位に見えるようになった。半年くらいは全盲の生活で、あんまさん(全盲のマッサージ師)の笛が聞こえてきて僕もあんまさんみたいなことしないといけないのかなと思って悩んだ。11月に退院しても通院しないといけないから叔父のうちにいて1月終わり位に家に帰ってきた。その間学校に行ってないから退院してから母や叔父の特訓だった。出席日数が少なくて五年生に進めるかどうか心配だから先生がテストしましょうといってきて、なんとかテストが大丈夫だったので無事進級した。もういいだろうと言われた時には視力が2.0だった(笑)

 

 小学六年生の時には人気があって学級院長になった。

 

 幼稚園は寺小屋で近くの谷川で沢蟹をとってあそんだりしていた。休み時間に沢蟹とりにいってなかなかかえってこないから先生が心配で迎えに来たり。

 

 我が家がちょっと変わっていたのは、父の仕事。父は日本舞踊の振り付けの仕事していた。戦前は民謡とか地方のなんとか音頭の振り付けとか仕事があったけれど戦後は仕事がなかった。父には収入がなかった。母は逆に先生の半分は英国人で授業も寮も英語だけという女学校のミッションスクール出ていて、国連のユネスコで働いていた。神戸にユネスコのオフィスがあったけれど、ほとんど海外に行っていた。母からの絵葉書で居場所がわかった。家事は近くのばあやさんに頼んでいた。入院するころになったら神戸の事務所にいて姫路の病院にも時々来てくれた。ユネスコで海外出張していたが休みの期間になると、女学校の時の先生が一人か二人我が家に滞在していた。五年生の半ば位に六月位からベーカー先生も見えるし英語を勉強してみるかと母が言って、先生と仲良くなっていたから、ぜひやりたいと言ったら、兵庫県立の高校の英語の先生に頼んでくれて、6キロくらいのところで、日曜日に先生から個人で習った。六年生の時には中学三年生までのが終わっていたので、中学の英語の授業はつまらなくて、窓の外の鳥を見ていた。英詩が専門でシェークスピアとかサマーセットウォームとか小説を読んだりしていた。高校にあがったら先生は早稲田の教授になって英検一級の試験委員長になったり論文や本書いたりしていた。高校二年生の時に三年生の受ける模擬テストを受けてみるかと言われて受けたら学校でトップだった。そんなだから多分今海外に行っても英語は困らないのだろうと思う。

 

 IBMやめたくらいからNTTグループのカレンダーの英詩を私が書いていた。ちょうど中学からいろいろな詩を習っていたから、プロモーションセンターに頼まれて作っていた。

 

 天体に興味がありずっと天文学者になりたいと言っていた。中学の図書館の星に関する本は全部読んだ。高校では天体力学の本をだいぶ読んだ。高校二年になってから父に天文学者じゃ食っていけないよと言われて、物理学の量子や分子が天文力学と計算やなんかも一緒で選んだ。

 

 高校時代は他の学校とちょっと変わっていて学校祭ではクラスで決めたことをデモンストレーションするというのがあった。クラスで何回も何回も議論して決めて、安保反対をした。

 

 大学受験では医者だと食っていけるだろうと、目の問題があって人を助けることも大事な仕事だと思って、第一志望は京大の医学部だったけれど落ちたので、電子工学を選んだ。学校の先生は浪人してみたらというが見事落ちたから浪人しなかった。父が経済的にそんなだったからだったというのもあっただろうが、男は18歳まで面倒を見るがあとは大学でも就職でもルンペンでもいいし自分で決めなさいという家だった。女は大学と大学院や留学も親が面倒をみたが、財産分与は男だけ。大学行こうというのは子どもの時から決めていたから小学校五年から新聞配達をして、弟も大学入学の費用は一切親の支援は受けていない。姉は東京女子大を出てカルフォルニア大学で定年まで働いた。自分の教育が悪いのか自分の子どもには勇気が出なくて自分の子どもの大学費用は出した。

 

 大学では電子工学だったけれど、先生の数学の教え方が上手だったのか好きになって、こんなに数学が面白いのかと目が覚めたような気がして、論文を読むのが好きになった。研究グループでコンピューターを作った。

 

 クラブ活動は高校の時にはしなかった。新聞配達も忙しくて遊ぶのも好きだったので。大学に入ってからは弓をやって結構うまくできた。大学では部に入って、毎日アルバイトをした。家庭教師や、大学からの紹介のアルバイトで電子研究所で働いた。研究所では新しい医療器械を研究して開発していた。自分自身が電子工学だったから楽しかった。いつでもきていいと言われていて春休みや夏休みにいりびたったり。

 

 大学二年の夏休みに研究室から英国人から小さい時に習っていた讃美歌が聞こえてきたからたずねてみた。ベーカー先生が家に小学校の時にきていたと言ったらベーカー先生ならうちの教会にいるよといって連れていってもらって時々教会にいくことなった。ベーカー先生は喜んで大歓迎してくれた。先生が説く愛に生きるのもいいなと思って洗礼を受けた。他の人と違って一神教だとそれだけがいいということになるが父は檀家の総代をしていて母もクリスチャンだけどお寺の仕事をしていたから、キリスト教だけがいいとか他がだめだという気持ちはないのは今でも変わらない。父は真言宗のお寺の檀家総代、クリスチャンの母は、結婚すると檀家総代の妻としての役割を果たすため一生懸命にお寺の仕事や檀家さん達のまとめ役をしていた。私も子供の頃は一緒に、そのお手伝いをしていた。聖書の中にも、『真実なものがあれば、それを心に留めなさい。』と書かれている。だからパレスチナに行ってもイスラム教のモスクにも行く。

 

 毎日大学時代には学校で紹介された研究所の仕事をしていた。大学の後どうしようかと思って、最初は大学院に行くつもりで、論文見てくれる先生も続けたらいいと言ってくれたけれど、またアルバイトやるのかと思っていたら、行くことを決めていた大学院で補助員という実験の下準備をお手伝いして授業料免除でわずかだけれどお給料ももらえる制度があると聞きそれをすることにした。そして大学卒業間近になって呼び出されて今年は補助員の予算がつかなくなったと言われた。大学院も受かっていたし、まいってしまった。一週間位悩んで就職しようと思って、どこに就職しようかなと思って、コンピューターなんか面白そうだなと思って、IBMなんか面白そうだと思って、のこのことIBMに出かけて行った。人事部長に話をしたいお会いしてから用件を話しますと受付の人に言ったらアポイントメントは取っていますかと言われて取っていませんと言った。帰りかかったところに人事部長が受付を通りかかり事情を話したら部長が部長室に入れてくれた。そして用件の悩みに悩んで就職しようと思いIBMに入れてもらおうと思ってきましたと言ったら、お前何考えているのだと、入社は八月には決まっていて試験も何も受けないで突然言われてもそんな話はないよと言われて君は非常識するのではないかと言われた。しかし、ちょっと待てと帰り際に中途採用の試験があるから一緒に受けてみるかと言った。一次試験は数学の試験とか色々あって二次試験が英語で論文書いたりしていろんな試験があって面談もあり受かった。中途採用は、20代後半から30代の人の中で、受かったのは90人のうち2人だった。他の人のよりも二週間遅れているけれど普通に入社した。1年半新入社員研修があった。厳しい研修で朝から晩までやって、英語の本を読んで来いというのがあったり、終わりに二週間の合宿があった。そこでは、ケーススタディである会社のシステム設計をするというのがあって、病院の設計をしてなんとか合格した。合格しない人は120人中結構いて30人もいた。

 

 SEになって色んな所でシステム設計の仕事をした。研修を終えて松下の仕事を1年ちょっとやって、入社4年目に大学院の夢が捨てきれずにもう一度東工大受けて合格したので上司に言って休職させてくださいと言って休職願いだした。上司は普通に給料を出してくれて学費も交通費も会社が出してくれた。良い会社だと思った。修士は3年間だった。大学院が終わって普通のSEに戻って色んな会社のシステム設計をした。

 

 IBMのSE部では営業所SEは会社を担当して、本社SEは営業所SEを技術的にサポートアドバイスする役割があった。本社SEをやっていたけれど、そこから開発に回れと言われて開発エンジニアになって新しいコンピューターを開発した。ところが、開発エンジニアには米や英や海外の人がたくさんいて色んなコンピューターの案があって、日本から案を出すが、なかなか通らなくて、面白くなかった。ブランチSEになりたいと言って九州の地場産業のSEを3年くらいやった。あぶらやまの近くに住んでいた。結婚してすぐに九州に行った。結婚式は横浜でやった。そして東京の本社でシステム設計をした。本社SEを別会社にするというプロジェクトがあってその担当になった。IBMシステムエンジニアリング株式会社として、アドバイスする会社だが、別会社としてなって軌道に乗った時にフィリップスからスカウトにきた。色々あったけれど、実際に見せてもらったり、色んな話を聞いて副社長と気が合って相性がいいなと思っていたがそのままになっていた。社長が会いたいと言うので会いに行って、君がくるのを会社は待っていると言われた。給料も聞いていないと言ったら、秘書に言って人事部長を呼んで、人事部長を指さして給料決めないで何やっているのだと言って、二人で給料決めてこいといって、これくらいでどうかと言われたのがIBMの1.7倍だった。それならいいやということで、社長の所に戻ったら明日から来いと言われたが、引継ぎも大事でしょうと言ったら、もっともだと言われて、当時10月半ばだったから、来年の1月1日からこいと言われた。

 

 最初は日本フィリップスに所属して、ある程度わかったら、本社の全世界の情報システムの総責任者になった。昇給があるなら約束してもらいたいと言ったら、年に5%以上という約束になった。入ったら、やりたい放題。働きたかったら、自分で売り込んでおたくで働きたいと言って雇ってくれと言っていけばいいのではないか。IBMに入るときには売り込みに行った。今は給料なくて自分の請け負った仕事だけで、コロナ依頼システム設計の依頼は何も来ない。しかも、パレスチナのプロジェクトも渡航禁止。

 

 パレスチナに行くようになったきっかけは、聖書の中の地名がどんなところかみてみたいなと思って行ったのが始まり。初めてだたから、牧師と話せばクリスチャンだからわかると思ってエルサレムの教会に行った。泊まる所を相談したら、教会に泊めてくれた。セントジョージカシードラルに泊めてもらった。せっかく日本から来たからアラファトに会っていけと言われてびっくりした、。イスラムのリーダーとキリスト教のリーダーで違うのでびっくりした。その場で電話して、日本から来た人が会いたいと言っているが、都合はどうかと話をしていた。ツーカーで話しているのにはびっくりした。牧師は、キリスト教とイスラム教が対立しているように見せかけているのは政治的はプロパガンダだろう。あいつらは悪いやつらだからやっつけようと雰囲気をだすために報道使っているだけで、イスラムキリスト教徒喧嘩しているわけではないと言う。そして翌日の朝に牧師が自分で運転してアラファト議長の自宅まで連れて行ってくれた。アラファト議長はよく来たと言って歓迎してくれてパレスチナの歴史や今世界の中で置かれている立場についてなど色んな話をしてくれた。そして、たくさん難民がいると言って難民キャンプを見せてくれたり検問所に行ったりした。ひどい所だと思った。難民キャンプが爆撃でやられて家がなくなって仕事もなくなって、でも難民キャンプしか生活の場がない人いる。国際支援があるはずだと言って、日本も支援してるはずだと言ったら、日本からこういう支援があったと言って、見せてくれたのが爆弾落とされて壊れてて治すお金がなくてそのままになった橋。パレスチナの外務省のビルも日本のODA支援だが、爆弾で壊されてそのままになっている。

 

 道路の検問所ができて一週間前に申請しないと通れない。もっと市民レベルで役に立つことを日本はみつけないといけないのではないかと思い帰ってきてから外務省に提案書を出した。現状調査をしてから支援計画を立てるべきという提案書を出した。SEの時に現状調査をやってきた。企業の現状調査をしてどのようにすれば企業にプラスになるかということをしてきた。それと同じで、市民レベルでやれたらと思い、どのくらいのメンバー構成でなどという提案書を出した。外務省の人にはODAの使い方について民間から出されても困ると言われた。かーっときて、ODAの資金は納税者が提案して何が悪いといって噛み付いた。その時の人は課長だったけれど周りの人がそういうことにしてもいいよねとなったと思うけれど、君の言うことはもっともだと言って、じゃーと言って、君の案に決める訳にはいかないので、使い方について公募しましょうと言われた。そして、提案をみて、外務省として提案を受けるか決めましょうということになった。公募して2-3か月後に集まってくださいと手紙がきて外務省の会議室に集められた。15社位が出した提案書がテーブルにつんでありこう言われた。大切な提案を皆さまからこんなにいただきありがとうございました。外務省で提案をひとつひとつ精査したが結論としては皆ぼつになりました。なんだ形を作っただけかと思った。このままだとひきさがれないから、ボツになったのは何が悪いか教えてくださいと言ったら、ほかに来ていた人もそうだそうだという感じで賛同してくれて外務省も折れた。今は準備が出来ていないから一週間後にまた来てください言われた。

 一週間後にまた行ったら、15社中来ていたのは5-6社位しか来ていなかった。そしてちゃんと丁寧に準備してあり、きちっと論理的に整理してこういう理由でボツにしましたと言われた。理由はこういうことでお分かりいただけたでしょうかと言われた。ボツになったところを直して再提出しますからといったら、迷惑そうな顔をした。そちらが公募したのだから、悪い所直して再提出したらいいことじゃないかといったら、迷惑そうな顔をしたが、課長もっともですよという人もいて、しばらく話し合っていたが、直して再提出してくださいとなった。また一週間位で再提出してくれますかと言った。再提出したのは3社だけだった。もうこれは外すための名目でと思っていたのだろう。一応私の案が通って現状調査をするということになった。私は自分の仲間で商品開発の専門家やマーケティングの専門家、物流の専門家とか、システム設計は自分で、七名と決めた。向こうに行って向こうの専門家を同じ位募集してチームを作って一年間現状調査をするという案だった。費用も全部交通費も提案の中に入っていて、費用を貰って一年間向こうへ行った。アラファト議長と会った時にラマラが政治の中心だと聞いていたから、ラマラにオフィスを構えた。色々頼んで専門家を呼んで面接して8名選んで秘書も雇って向こうでオフィスを設けて調査した。調査結果はレポートを作った。レポートは日本の外務省とイスラエルとパレスチナとヨルダン政府に提出した。提案の中で、難民の人達が働いて自分で家族を養っていける社会システムが必要だと書いた。疲弊しているから、難民を雇うと経済効果がこれくらいだと書いた。それは向こうは受けてくれるかわからなかったけれど、ちょうど緒方貞子さんがジャイカの理事長になって調査チームの案を見てくださり、ジャイカのプロジェクトにしようと言って拾ってくださった。ODAの資金もとりやすくなりそれで工業団地を建てることになった。

 

 第一ステージは全部出来ている。イスラエルに電気を止められたり水を止められたら使えないので、自前で出来るようにしている。ソーラーだけで電力全部賄えるように計算して、水は井戸を掘って850mまで掘ったら、いい水が出てくるようになったので井戸から各企業に給水している。地下に大きな濾過装置で使った水は再利用するように設計した。設計は全部自分でやったけれど、建設は外務省は大成建設使えとか言われたけれどパレスチナの経済助けるためだからと言ってパレスチナの中小企業に絞ってやってもらった。向こうの建設会社が6-7社入って建設している。アラブ人はちょっといい加減と思ったけれど設計通り手抜きしないできちんとやってくれる。自分で見て関心するが手抜きしていない。今は19社入っているが全部で85社入る。全部出来上がると新規雇用が7000名位。入社希望者の説明会やったら85社のところ200社来た。選ばないといけないが決めたら恨まれるから条件を決めて入居を決めるのはパレスチナ政府で、入居希望組合を作って企業の中長期計画を出してもらった。説明会をしたときにあるおっさんという感じの人が、「岩浅さん、間違ってもらったら困る。企業というのは恵んでもらうのが企業というわけではない。日本のODAの資金がないとこういうのはできなくて、日本からの支援は非常に助かるが恵んでもらうとは思っていない。企業は融資で返す。」と言って、それはびっくりしたけれど、その後「そうだ。そうだ。」という感じになって、パレスチナ人はすごく誇り高いと思った。それで入居組合に中長期計画と企業によって違って良い訳で短いから長いからとか関係なく期間に関係なく返済計画を企業に出してもらい、入居組合が審査して入居企業が決まる。今入っている所は返済し始めている。計画通りにキチキチと。ODAは百何十億円だけれど全額返ってくる。日本の持ち出しは±ゼロ。誇りの高さに感動した。ODA資金を全額返すといったところはあんまり聞いたことがない。もっとよこせとか、日本が出すのは当たり前といったところはあるのに。「企業は恵んでもらってやるのが企業ではない。ちゃんと資金があって利益を得てやっていくのが企業なのだ。ODA資金は全部融資という位置づけ」そういったのに、皆が「そうだ。そうだ。」所が聞いていて見ていて涙が出た。そこまで言うのかと思った。本当に涙が出た。だから、こっちもやる気が出る訳だ。この設計をするために一級建築士を取った。でも、ペーパードライバーだけど。今二次に取り掛かる段階で、二次の設計をしないといけないけれど、外務省からの渡航禁止で行く事が出来ないでいる。

 一次が終ったので、次は二次計画に掛かり、二次までは、パレスチナ経済支援のため、入居はパレスチナ企業に限定しています。三次はイスラエル企業も一緒に入れる計画です。 お互いにお隣り仲間になったら仲良くなることも想定している。イスラエル政府も良い案だと言っている。イスラエルのためにもやっている日本政府のプロジェクトだから絶対に壊すなと行くたびに言っている。「もし壊したら、日本とイスラエルとの関係が悪くなる。」と話して了解を得ている。

 パレスチナのプロジェクトはこんな形でぼちぼちとやっている。二次、三次の設計はまだできていない。二次計画に井戸は最低二つは必要だし、電力はどこでどうするかかも決まっていない。

外務省との交渉は困難で色々大変な事もあるが、故緒方貞子さんはじめ賛同してくださる方もあり、現地の現状を思うと、二次、三次を急がないといけないと考えている。

 

 パレスチナ事業以外にはよその企業のシステム設計をしてきた。IBMにいた時に富士重工のシステム設計をしたのが業界で評判がよくなって、IBMからIBM新機種開発のシステム設計を頼まれた。今の新機種は、そのシステムの中から出てきたもの。新機種は何をもっていい機種と言うのか、お客さんにとっても企業にとっても将来の技術作るにもいいとか条件があってどういうのがいいのかをシステム設計した。

 

何年か前に聖路加病院が新しくなる時に日野先生から頼まれてシステム設計をした。九大病院のシステムを日野先生が見てくれて頼まれた。IBMの卒業試験でやった提案だった。病院をいくつかやった。

 

パレスチナが平和になるためにはどうしたらよいのかはわからないから、難民の人が働けるようにしたい。外務省にパレスチナに行きたいと言っているのは、なぜかと言うと、向こうの政治の中心の人を両方知っているからその両方に話をしていきたい。私の見方だけれど、なんだかんだいって、ネタニヤフのやっていることは論理的にもめちゃくちゃだ。南アフリカがジェノサイド(民族浄化)だと言って訴えているが、米が拒否権行使して、つぶしている。日本政府はどうしたら動いてくれるのかわからない。日本政府は両方に戦争辞めろということを言っていない。

 

イスラエルで選挙するとネタニヤフが勝つ。イスラエル人でイスラエルは今の領土だけでなくシリアレバノンヨルダンも含めてだという人がいる。その根拠は聖書の中に書いてあるからだと言う。シリアに対してもめちゃめちゃのことに対して爆撃で応じていると言っている。レバノンに対してシリアが攻めたことがあるが他の国が抑えて戻したけれど、イスラエルがとろうと思っていた。イスラエルの国民をプロパガンダで色々と占領している。イスラエルのやっていることはユダヤ教会の教えに反している。テルアビブでも反政府デモしている。ガザと西岸が公の地図だけれどどんどん侵略されて茶色のところだけがパレスチナ。ばらばらになって壁で囲まれて。検問所が出来て一週間前に許可得ないと隣村にも行けない。工業団地を端に作ったのは検問所が一つ位でヨルダンから輸出できるから。ここに作って近くに従業員が住んで検問所を通ることないように。ヨルダンは親パレスチナなので、ヨルダンに出せば輸出できる。外貨が入ってこないと国が豊かにならない。どんどん侵略されてノルウェーが本来国連が決めた線に戻さないといけないのではないかとオスロ合意ができた。すぐに戻すのは無理だから5年間かかって正常な状態にしようといった。パレスチナ側はアラファト、イスラエルはラビン、国連とノルウェーが入って、オスロ合意結んだ。なんとひどい調印をするのだといってラビンが暗殺された。俺たちがとっている土地をパレスチナに返すのかと言って、ラビンが暗殺された。ラビンの後任が中東戦争戦ったシャロン。シャロンはオスロ合意は勝手にラビンがやったもので私は知らんといって国連も入ってるのに就任演説の一言で反故にしてしまった。パレスチナはどんどん侵略される。シャロンの時は中東戦争で戦って浸食されて調査した時の図だからまたもっと少なくなっているはず。入植地ができている。本来のパレスチナの土地の18%になっている。8割がイスラエルに取られている。ガザもあんなもんじゃない。シリアレバノンヨルダンが自分のものだとめちゃくちゃなことを言っている人がいる。ロシア侵略に対してウクライナが反撃しようとしていて我々も少しでもまた戻そうじゃないかといってやったのが2023年10月7日のことである。あんなことやっても逆にやられている。国民の多くはハマス寄り。アラファトの後任の選挙をして選ばれたのだが、ハマスは抵抗活動しているからテロリストグループを国の代表にできないからハマスは困ってファタハに国の代表を譲った。アッバースが代表になっている。

 

 国民の少なくとも半分はハマス寄り。ハマスに対してウクライナではあんななのにほっとくのかという声がある。かといってじゃ、それでやったなら何倍もやり返されてなんのプラスにもなっていない。ファタハは非暴力にしようと言っている。ファタ派のリーダー達は、聖書の教えにも、イスラムの経典みも、「目には目を、歯には歯を、腕には腕を、足には足を」と書かれている通り、やられた事以上の仕返しをしてはならないと書かれている。インドのガンジーに倣って、我々は「非暴力による抵抗活動に徹しよう。」と取り決めをした。ムスターファバルグーチはNo.3の人でスタンフォードでドクターをとって今医療活動をずっとガザも含めてやっている。その人がファタハの活動もしている。バルグーチとかラマラの市長とかベツレヘムの市長とかが主になって非暴力の抵抗活動している。ファタハの中には非暴力ではどうにもならないからウクライナくらいなみたいに抵抗しようという人もいる。非暴力の抵抗活動も功を奏して6-7年前にはあったが自爆テロ自身はほとんどなくて減っている。結局オスロ合意だっていったってイスラエルはないものだといってシャロンが認めないといったが、ネタニヤフがシャロンの後任でもっと右である。シャロンの時からオスロ合意はなかったことになっている。おかしいじゃないかと言ってるのが国連やオスロの人達で、両者が文書交わしているといって国連に守らせるようにと言うのを出しているが、アメリカの拒否権でつぶされている。ユダヤロビーがいる。イスラエルは何やっても米がついてくると思ってる。

 

 テントオブネーションズというのがある。テントオブネーションと言うのは、ベツレヘム近郊で農業を営む、1家族で、周囲をイスラエルの入植者に囲まれて、毎日嫌がらせや攻撃を受けている。その一家を助けようと、様々な団体や海外からの学生グループ等が支援に入っており、そこから、様々な発信を世界にしていると言う、農家の家族の事。 

 

 日本にいる私たちができることは、事実はどうであれ事実は自分の見方で、人の見方によって事実は違うけど、やっぱり正義は何かとか、どうしてこっちが考え方が正しいのか考えること。人間の常識から考えてパレスチナの武力による侵略はおかしいから、本来の土地は国連で決めたはずなのに侵略しているのは、正義なのかどうか訴えることが必要だと思う。イスラエルの考え方を変えるのはできるわけない。国際世論や日本の世論をそういう風にもっていくというかね。私たちが正しいと思ってる世論の一員になって世論は長い目でみると世の中を変えていく。世論の一員になるということ位しかない。そもそもパレスチナに関心がなくてしったこっちゃないということになっている。だから私はこういう状態だということを講演してる。パレスチナを知る50章にも頼まれて寄稿した。最初は2千冊。第二版は千冊。今は五百冊ずつ。第五版が出たばかり。