今から77年前、昭和22年9月に襲来したカスリーン台風によって大利根地域の

利根川と北川辺地域の渡良瀬川の堤防がともに決壊した。

これは、新古河駅のすぐ近く、三国橋よりやや上流の渡良瀬川堤防上に設置された

決壊口の記念碑である。

 

台風が通り過ぎた翌日、利根・渡良瀬という大河の上流に降った雨が流れ込んで、

利根川の水が逆流し、三国橋付近の渡良瀬川の堤防が、およそ300メートルにわたり

決壊した。

三国橋の橋桁には流木などが引っかかり、あまつさえ利根川から逆流する水勢に

渡良瀬川の堤防は耐えきれなかったという。

堤防の高さも現在より数メートルは低かったというから上流からどんどん押し寄せる

水に対してはひとたまりもなかった。

 

土手が切れたとき、満月の夜だった。

東村(大利根)の利根川堤防もほとんど時を同じくして切れたが、三国橋の方が

先に切れた。

現在、水防の日が北川辺では9月15日、大利根では16日だそうである。

なお、利根川の決壊口は現カスリーン公園、やはり記念碑がある。

この時の利根川右岸の決壊による洪水は4日かけて東京まで達し、東京下町

を水浸しにして甚大な被害を与えた。

このことは拙稿「今さら聞けない田中正造と北川辺⑦」にも記した。

利根川水系で破堤があると東京にも被害が及ぶとということが教訓となって、

例えば八ッ場ダムの建設にも東京都はお金を出しているということだ。

 

この時の水害のニュース記事(毎日新聞だったか埼玉新聞だったか)を

どこかで見た覚えがある。

利根川堤防決壊により、すさまじい濁流を目の当たりにして、交通も通信も

遮断された利根川対岸の川辺・利島両村は全滅か、という記事だ。

しかし、川辺・利島両村で亡くなった人は9人。

多いのか少ないのか、見方はいろいろあると思うが、先の新聞の全滅?記事から

みると、犠牲者の数は少ないといえよう。

江戸時代以降、利根川東遷の影響で、水害の常襲地帯となった北川辺の人たち

にとって、水害には慣れっこになっていたのではないか。

村の人たちの多くは堤防に避難して、板や材木で小屋を作ったりしている。

三流亭の叔父さんの話によれば、家の柱と屋敷林のケヤキの大木を

ロープでつないで家が流されないようにしたそうだ。

 

また、この地方には水害の備えとしてあげ舟、水塚が特筆モノとして指摘できる。

あげ舟とは長屋の軒先などに吊るしておいて、いざ洪水となると人や家財を乗せて

避難できる。

水塚とは家の敷地の一部に土盛りして、穀物などを貯蔵したり、避難所ともなる建物。

北川辺では「みづか」あるいは「みつか」と呼んでいる。