ステパン・バンデラ。
続き記事ですので、未読の方は『ステパン・バンデラ1 生まれから学生時代』からお読みください。
ナチスとの和解
1943年2月、ソ連領内のスターリンの名前を冠したスターリングラードでの攻防戦で、ドイツ軍がソ連軍に敗北します。これが第二次世界大戦のターニングポイントになりました。
それまでドイツの勝利は確実だと思われていましたが、それが崩れたのです。
ドイツは前進してくるソ連軍に対抗すべく多くの軍隊を必要とし、ドイツは占領地域で名目上の独立をエサに軍隊を編成しはじめます。
ドイツはソ連と戦う義勇兵を募集し、それには8万人の応募がありました。参加したのは穏健派のOUN-Mと、ソ連とは戦う意志のあるウクライナ人と外国人義勇兵でした。こうしてウクライナ人を中心とした第14SS武装擲弾兵師団『ガリツィア』が編成されます。ガリツィアは1年以上訓練を続け、ガリツィア地方での防衛戦でソ連との戦います。ガリツィア師団以外の部隊募集を行われすべてを合わせると23万人が動員されました。
ガリツィア師団のマーク。
ヒムラーの閲兵を受ける師団兵、1943年5月。
1944年、ドイツとOUNは関係を修復し、バンデラ、OUN-M(穏健派)のメリニクら、ウクライナ民族主義者は収容所から解放されました。
協力してソ連軍に対抗することにして、ドイツ軍とUPAは協力関係になりました。
しかし、軍を再建し、強力になったソ連の侵攻を食い止めることはできません。
1944年4月にはウクライナ全土は、ソ連に占領されます。ソ連軍は、そのままドイツ国内へとなだれ込んでいきました。(World War II Every Day with Army Sizes - YouTube)
UPAは森林地帯に潜んでゲリラ戦を展開して、激しくソ連軍に抵抗します。1944年後半から大戦終了までに89000人のUPA兵士が殺され、91000人が捕まりました。(【ゆっくり解説】ウクライナ蜂起軍 - YouTube)
ガリツィア師団は、ウクライナで防衛戦を戦った後、ドイツ軍と共に終戦まで戦い続けました。
1945年5月9日、ドイツはベルリンでソ連軍に無条件降伏しました。ヨーロッパでの大戦は終わりました。
戦後の戦い
1945年5月9日、ヨーロッパでの大戦は終わっても、元々国を持たないウクライナ民族主義者達の戦いは終わらず戦後も抵抗活動を続けました。
ソ連軍は、ドイツが降伏した後、ウクライナやバルト諸国で起こっている反乱を鎮圧すべく、軍を再編成します。
UPAメンバーであると疑われる人々は拷問されました。1944年から1952年に、ウクライナ西部で60万人が逮捕され、その約3分の1が処刑され、残りは投獄または追放された可能性があります。
UPAは、当初は地元の支援を受け、戦い続けパルチザンとしてかなり有利に戦いました。ソ連軍はUPAを補足できませんでした。UPAは軍人だけではなく、わずかでもソ連に協力した人間、ソビエト系の村の村長、赤軍の職員を保護または給餌している人々、集団農場への食糧提供者にさえ殺しました。これらのテロの為、1940年代後半まで、村長は家族のいない独身男性から選ばれました。当初UPAを支援していた住民も過激な活動に怒り、UPAへの支持は低下していきます。
1947年、ソ連の諜報部隊がUPAに浸透し始めると、UPAの活動は低調になります。1950年にUPAリーダーのロマン・シュヘーヴィチがソ連の諜報員に殺され、1954年にはUPAの活動は終了しました。
UPAの兵士達。
出典:A few words for Christopher Miller about “Banderites” and Ukrainian history — Архів ОУН
戦後のバンデラ
大戦末期、収容所から解放されたバンデラは、ナチスの特務部隊に守られて避難します。
西側の諜報機関は、第二次世界大戦後は新たにソ連共産圏との戦いが始まると予想し、その為の準備を始めます。ナチス・ドイツの協力者であろうとおかまいなしに、反ソ連に利用できそうな民族主義者達を保護し始めます。
ナチス・ドイツという後援者を失ったバンデラでしたが、今度は1930年代から接触があった英国が新たな後援者となりました。
大戦後のバンデラは、ドイツ国内を偽名を使って転々として、最後はミュンヘンに落ち着きます。
1946年、英国諜報機関MI6はOUNを再編します。バンデラは、OUNとUHVR(OUNとUPAを指導するために作られた組織)の指導をします。(ネオナチ、ネオコン、巨大資本に蹂躙されるウクライナ | 《櫻井ジャーナル》 - 楽天ブログ)
米国のCIAはバンデラと接触しますが、彼の頑迷な性格にコントロールしきれないと評価しています。
しかし、米国はバンデラを利用できると考え、ソ連からのバンデラの引き渡し要求に対して「バンデラがどこにいるか、わからない」ととぼけて拒否します。
1958年6月23日、ロッテルダム墓地にて、コノバレッツ没後20周年に行われた、ウクライナ民族主義者の集まり。
前列右からミコラ・カプストヤンスキー、アンドレー・メルニク、ステパン・バンデラ、ドミトリー・アンドリエフスキー。
出典:З москалями нема спільної мови. Стаття Степана Бандери з 1952-го року — Локальна історія
『ステパン・バンデラ5(終) バンデラの暗殺』につづく。