随分と矛盾したことかも知れません。
“優しく、厳しさを教える”
厳しさを教えるには、厳しくしないとならないと考えている人が多いと思います。
私は、そうは思いません。 優しく、厳しさを教えられると思います。
言葉や表情、声までも、厳しさを演じなくとも良いと思うのです。
“厳しさを教える”とは、厳密さ、厳格さを教えることだと思っています。
こと細かな事を伝えなければ、伝統的な仕事というのは伝承されません。
ということで、細かく、いちいち注意しながら教えないとならないのです。
会社では、上司が部下に仕事を教えます。
この時、師匠と弟子の関係で教えるか、上司と部下の関係で教えるかの違いがあります。
現代においては、パワハラ、モラハラなどの問題がクローズアップされているため、部下に何も言わない上司が大変増えております。 私の同僚達も、とにかく努めて優しく振る舞っておりました。
優しく振る舞うのは大変良いのですが、行き過ぎて、機嫌を取るようなこともしていました。
例えば、職場でのパワハラ調査が開始される直前などはコーヒーを奢ったり、必要以上に部下を褒めたり、滑稽で、なおかつ誰が見ても分かるような気の遣いようでした。
そういう異常な上司達も増加し、何も言わない、注意しない上司が大変増えました。
仕事の手順だけを教える上司が増えたのです。
これは、上司の立場を保身しようとしているだけであり、部下に一人前になって欲しいなどとは思っていないのです。
もっと悪く言えば、部下がどうなろうと知ったこっちゃないと思っているのです。
皆さんの周りは、どうでしょうか?
話しは変わりますが、仏教の禅宗では、師匠と弟子の関係を伝えた話しがあります。
師匠というのは、ともすれば敵(かたき)と思われるのが正解だというのです。
前から師匠である和尚さんが歩いてくると、弟子たちは急に道を変えてすれ違わないようにするそうです。
それを見た別の禅僧が、「嫌われているようですね」と言ったところ、「それでいい。修行というものは、そういうものである。」と言われたそうです。
かの有名な白隠さんも、師匠である正受老師の葬式にも、墓参りにも行かなかったそうです。
師たる者、尊敬されたり慕われたりするものではなく、厳格に守るべきものを伝えていく役目があるそうです。
そして皆さんもご存知のように、守・破・離と、師匠を超えていく存在になっていくのだということです。
禅僧というのは、師匠のコピーであってはいけないそうです。
臨済宗 円覚寺の管長は、代々真逆のタイプの方がなられるそうです。
禅僧が十人居れば、十人の禅がある。
話しを元に戻します。
会社では、仕事の手順だけを教えていません。
考え方、会社の想い、世の中での役割、志や哲学も教えているのです。
すると、少々口うるさい上司も登場するわけです。
決して、怒ったり、怒鳴ったりするわけではなく、いちいち教えてきます。
少々、面倒くさいのです。
上司だから、仕方なく聞いています。
でも、そのうち、守るべき基本的なことや哲学も身に付いてくるのです。
守破離の守を、身に付けるのです。
ただ部下に優しい、気を遣ってくる上司とは違います。
部下を一人前にしようとしている師匠なのです。
そういう師匠は嫌われます。
逆に、嫌われていない師匠は、師匠ではありません。
皆さんの記憶の中に、優しかった上司、厳しさを教えた上司と居ると思います。
どちらの上司から、多くのことを学びましたか?
優しさだけだった上司は、実は皆さんのことなんて考えてなかったと思いますよ。
「私は、独りで勝手に学んだ」と思っている人も、実際は教えてくれた人が居るのです。
皆さんは、どんな上司ですか?
あるいは、どんな上司になるつもりですか?
