前回のブログで、「経理実務におけるスキル性質」について、自分の過去を振り返ってみた経験と併せて、アウトプットしてみたわけなのだけれども、こうして、「過去の出来事」について「思うところ」がある場合には、いったん、文字にしてアウトプットしてみて、じゃあ「今の自分」は、その「過去の出来事」について、どのように思っているのか?(どのように解釈しているのか?)といったことを、整理してみることで、「あ、(無意識のうちに、)こんな判断をしていたのね」や、「(その過去の出来事に対して、)そういう捉え方をしていたのか!」といった発見・気づきが得られるといった面で、確実に、ポジティブな側面があるというのは、それはそうなんだろう。まあ、あまりにもtraumatic(トラウマ)な経験・体験については、ブログで公開するほどの勇気が出てこない...といった人は、当然のことながら、いるとは思うんだけど、それにしたって、自分でノートにまとめてみて、ふとした時に、そのノートを見返してみると、「ああ、成長したなあ...」という、感慨深さだったり、「今の自分」と「過去の自分」とを比較して、「昔だったら、できない発想だったなあ...」という、単純比較による感想だったりといったものが、少なからず、あるはずで、そういうところに、「文字にして起こす」といったことの真価というか、本来の価値が発揮されるのだなあ...と、今、改めて、少しずつ実感しつつあったりする。
もちろん、「誰か」に「話す」ということも、同じ「アウトプット」だから、それならば、「話す」ほうが気楽にできるし、即座に気持ちも共有できるし、そっちのほうがいいんじゃない?といった考えも、あるとは思うのだけれど、例えるならば、「自分一人」で「テニスの壁打ち」を、延々としていく感覚やセンスには、「話す」よりも「書く」といった行為のほうが、明らかに近いような気がしていて、それならば、「独り言」を言っていればいいんじゃない?と、またもや、言われそうなんだけれども、それよりも、あくまで「書く」ということを通じてのほうが、「記憶」であったり、「認識」や「認知」といった側面において、より深いレベルで行うことができるのではないだろうか...と、最近は、思ったりしている。実際、「書く」ではないのだけれども、「聴く」と「読む」では、どちらのほうが、記憶の定着率が良いか?といった実験では、イメージで言うと、「聴く」が5%なのに対して、「読む」では、10%ほどの効果が、期待できるらしい。つまり、スポーツと一緒で、少し面倒だなあ...と、思う作業のほうが、そうでない作業に比較して、より定着率が良いということが、言えるんだと思う。
僕も、30歳ぐらいのころから、耳で聞く読書と呼ばれる、オーディオブックを聴き続けているのだけれども、その(記憶が残っているといった意味での)定着率といった観点からするならば、実際に「読ん」で、感想を書いたりした本と比較したら、その記憶に残っているフレーズの量というか、そのイメージは、全然、異なってくるのでは?と、思っているが、そもそも、実際に、読んで感想文を書いてみたところで、僕の場合には、「記憶」に残っている部分が、非常に少なく、「あれ?ほんとに読んだっけ?」とまでは言わないまでも、どうも、「その本の説明をしてください」と言われた場合に、なかなか、話せなかったりとかしていて、これ(この能力)についても、才能の問題もあるのかなあ...と思って、半ば、本の内容を説明する能力については、諦めモードになっていたりする。本当に、何回も何回も読んで、精読をしたような本だったら、もしかしたら、感想を書いたりしなくても、本の内容の説明ができるぐらいには、なるのかもしれないけれども、正直、そんなに何回も読む気がしない...というのが、正直なところだ。
まあ、もちろん、記憶力という観点のみから見た場合であって、その人(著者)の「体験(他人の人生を追体験したかのような感覚)」を、持てるかどうかといった観点から考えるならば、別に、記憶にあまり残っていなくても、十分、追体験することができたから満足だ!といった感想も、当然のことながら、あるとは思う。ただ、やっぱり「会話のネタ」として成立させるためには、あくまでも「精読」をしていかないと、思うように話すことはできないのかなあ...と思っている。