一度、言われたことを、再度、確認してしまう癖というのが、最初の正社員として経理で働いていた時に、かなり顕著だったらしく、今、(当時を)振り返ってみると、どこか「上司の指示を聞いている」際にも、「緊張感」というか、一種の「ぎこちなさ」というか、「自然体の自分」という状態で、「上司の指示を聴けていたのだろうか?」という、一つの疑問・疑念が思い浮かぶ。もちろん、当時は、緊張感を系統的に脱感作する自律訓練法も休憩時間などでも、積極的に取り入れていたことから、この「緊張感」というのは、それは当然、それなりのものがあったんだろう...とは思うのだけれども、その「緊張感」が、「頭(左脳)」に情報を自然な形でインプットすることを、それなりに妨げていた...というような見方も、同時にできたのではないだろうかとも思っている。言うなれば、大学在学中に、サークルに入って、ゼミに入って、飲み会に参加して、バイトもして...といったような日々を、もしも送れていたとしたならば、もっと、この「緊張感」や「ぎこちなさ」を一気に軽くして、「自然体の自分」を維持・構築?していくことに成功していたのではないだろうか...とも、一方では思ったりもしている。

 大学在学中の、特に、大学一年次の時の自分と言うのは、どこか「自分を隠さなければ(緊張型頭痛の症状が続いていることを隠さなければ...)」という意識に、自分が、無意識のうちにとらわれていたりして、大学内の簿記講座などを受講していても、なかなか、自然体の自分(あるがままの自分)というのを、素直にさらけ出すことに対して、無意識レベルでは、どこか抵抗感を示していたりしたのかな?と、思うぐらいに、なかなか勉強仲間ができづらかった側面があった。電車で地元に帰ってきたら、話しかけてくれる人はいるけれども、大学のキャンパス内にいるときは、同じ高校出身の友人以外は、一緒に勉強していても、どこか「疎外感」のようなものを感じざるを得なかったような、そんな気がしていた。まあ、これが仮にサークルに入っていたとして、解消されていたのかどうかは、正直なところ、わからないわけだけれども、少なくとも、「勉強」では、打ち解けることのできなかった他人が、打ち解けることのできる他人に変わっていた可能性は、正直、ゼロではなかったのではないのかな...と。ただ、その代わりに、簿記の学習ができなくなったり、バイトに明け暮れなければいけなくなったりと、単に、勉強に集中していればよかった、大学一年次の一学期とは変わってしまい、簿記論1の単位も、もしかしたら、落としかねなかった可能性も否定できなかったのではないのかな...とも、思ったりする。つまり、簿記の勉強では、この「緊張感」や「ぎこちなさ」を軽くすることには、成功できなかったわけだ。簿記の勉強仲間も、一人できていたとはいえ、一緒に「勉強をしている」だけであって、決して、フレンドリーな関係になれたわけではなかったし、親近感や親密さというのも、全然、感じることができずにいたというのを、よく覚えている。

 大学一年次の終わりあたりに、やっと親近感を持てるような、そんな友人に出会うことができたのだけれども、やっぱり、自分のコンディションの悪さゆえなのか、どこか口が重い感じがしていたのは事実で、「あ、自分、無理していたのかも。。」と、実感させられた瞬間でもあったりした。専修大学内には、計修会という、会計士や税理士を目指す人たちのための勉学団体というのが、あるらしかったので、その団体を頼りに、勉強仲間を作ろう!と、計画していたのだけれども、それはあてが外れてしまった。ともあれ、僕は、この友人の存在のおかげで、大学キャンパス内で、そこまで疎外感を感じずに過ごせたというのが、正直な本音で、やっぱり、大学一年次のサークル勧誘の際に、素直に、勧誘に応じていれば、このようなことにはならなかったのかもしれないな...と、未だに、思ったりしてしまうわけだ。

 この「一定レベルでの緊張感の持続」というのは、もちろん、先天的な素質によるところも、結構、大きいのかな...とも、思うのだけれども、少なからず、いろいろな「場所」に行くという経験としての「旅行」や「出張」などの経験を積み重ねる...あるいは、いろいろな「場所」に行くという経験としての「飲み会」や「合コン」などの経験を積み重ねる...などについては、自分の身体的・精神的な緊張感を、「場に慣れさせて、適切な緊張感のレベルへ緩和させていく」という意味合いにおいて、こういった「経験」というのは、それなりに「ポジティブな経験」となって返ってくるのではないだろうかとも、思ったりしている。正直、「出張」や「飲み会」あるいは「合コン」というのは、それなりに経験してきたと言うことができるのかもしれないが、純粋な意味での「旅行」というのは、正直、まだ足りていないのかもしれないと思ったりしている。いろいろな人と、「話す」トレーニング自体は、それなりに積んでこれたのかもしれないが、いろいろな「場所」に行くという経験という意味では、自分でも、正直、及第点だと言うことはできないのかもしれない。まあ、とにもかくにも、旅行というのは、まずお金がたくさん、かかってくるものだから、僕ではなくても、そんなに積極的に行くことができる人というのは、少ないのだろうとは思うけど、大学在学中にこそ、いろいろな「場所」へ行く経験を積んでおくことができたならば、この「緊張感」から来る「インプット精度の移ろいやすさ」みたいなものは、そこまで感じずに仕事に携われていたのではないだろうか。

 まあ、それを日常生活での「ちょっとした変化」として、捉えるのであれば、やはり「外食」や、「居酒屋」など、さまざまな「空間」で、「ちょっとした非日常感」を味わう...ということになりそうだけれども、それと比較した場合、「旅行」や「出張」というのは、確実に、それ(外食・居酒屋)以上の経験になる...と、言い切ることができるのかもしれない。ライフネット生命の会長、出口治明さんが本で言っていたことだけど、「いろいろな人と会う」、「いろいろな本を読む」、「いろいろな場所へ旅をする」というのが、成長に必要な三要素だと言っていた。「いろいろな人と会う」というのと、「いろいろな本を読む」というのは、一応、できていると言えるのかもしれないが、「いろいろな場所へ旅をする」というのが、僕の場合、やっぱり劣ってしまっている。「飲み会」こそ、いろいろな飲み会へ参加したかもしれないけど、「非日常」を味わうんだったら、やっぱり旅行だったよなあ...と、今、改めて、実感させられている。