上手く、日本語で説明することはできないけど、「なんとなく、コツをつかんだ」という経験はないだろうか。これは、学業や仕事に限らず、車の運転でも、料理でも、スポーツでも同様のことが言えるとは思うのだけれど、その「(上達の)コツ」を、上手く表現して、伝えてくれ...と、言われてしまうと、なかなか思うように、言語化することができない...そのような人たちというのは、僕が思っている以上に、多いのではないだろうか。スポーツでも、「選手」として優秀だった人が、「コーチ」としても、優秀なのかと言われると、意外と、名選手=名コーチとは限らない...という現実に直面する。つまり、この「(上達の)コツ」を、理解できるように(その人の腑に落ちるように)explanation(説明)する能力が、まだまだ足りない...といったことを意味しているのではないだろうか。

 このようなexplanation(説明)のスキルにしても、さまざまな形(在り方)があると思っていて、例えば、心理カウンセリングのような、相談の伴走者的な在り方もあれば、ビジネスコーチングのような、目標達成のためのゴール設定と、そのズレの調整に関して、有益なアドバイスをしていくといったような在り方もあれば、ITコンサルタントのような、あくまでも、問題解決に向かって、何らかのソリューションを提供していく...といった在り方もあるし、もっと言ってしまえば、予備校講師や塾講師、プロ家庭教師などの、あくまでもteaching(教えること)に専念するような在り方もあると思う。したがって、このexplanation(説明)するためのability(能力)一つとっても、このように、その在り方というのが、千差万別というか、本当にいろんな形のありようがあるということを、僕たちはまず、認識(recognize)しておく必要性がある。

 もう少し、このexplanation(説明)の在り方について、考察していくと、いわゆる、カウンセラーやコーチングの場合には、その相談者(クライエントorクライアント)に対して、あくまでも、なんらかの「一種の気づき」を与えるためのセッションでもあったりしていると思っていて、「自分一人」では、「気づく」ことができない、無意識の領域(unconcious teritory)から、無意識の言葉(unconcious word)を「引き出す」あるいは、「自然と話してしまっている」という、「顕在意識上の状態」を、ある種の小さなゴール(small step)として捉え、それ(small step)を一つずつ、乗り越えていくことによって、その成果の総量を推し量ろうとする試み...という見方も、できなくはないのではないだろうか。つまり、teachingというよりは、あくまでも、終始一貫して、coachingといったスタイルに徹している...というように、捉えることができるのかもしれない。ここ(unconcious teritory)には、当然のことながら、無意識バイアス(unconcious bias)も含まれてくると思っていて、言うなれば、自分さえが気づくこともできなかった、自分自身あるいは他人自身に対する、無意識的な穿った見方をニュートラルな状態にしていくという作業も、この「一種の気づき」の中に含まれてくるという見方もできることだろう。この「一種の気づき」を、わかりやすい言葉で言いかえると、「成長のコツ」といった表現で置き換えることも、そこまで的外れな表現でもない気がするのは、僕の気のせいだろうか。その一方で、ITコンサルタントのexplanation(説明)というのは、あくまでも、そのソリューション(問題を解決するモノ・サービス)を導入してもらうために、必要なexplanationを必要に応じて、explanationしていくというスタイルであって、あくまでも、このexplanationがmain function(主要な機能)ではない...といったことに留意する必要性があるように思われる。それよりは、あくまでも、consulting(助言することまで含めたソリューションの伴走者)としての役割のほうが、非常に大きいと思っていて、そして、それ(explanation)は、「気づき」を与えるためのものとは限らないといった感じだろう。

 では、予備校講師や塾講師、プロ家庭教師はどうなのかと言えば、これは、explanationの果たす役割が非常に大きい。特に、世界史や日本史ではなく、現代文や英語、数学、理科などについては、このexplanationが、どの程度のレベル感で、なされているのかといったところが、生徒の学力の向上ぐあいにも、かなり直接的に関係してくると思われる。ついでに言うならば、生徒を引き込むようなexplanationができるかどうかというのも、かなり重要なウエイトを占めることだろう。そして、勉強をしていくプロセスの上においての「ある種の気づき」といったものは、いったもので、それはそれであるだろうな...とは思う。最も単純に、シンプルに表現するならば、「あ、そっか。わかった!」になるんだけど、それを一歩、推し進めると、「あ、そういう仕組み(構造)で、この科目のこの分野の勉強って、できていたんだ。なるほど~。」といった具合にまでimprovement(向上)させることができるかどうかが、この予備校講師なり、塾講師なりの腕の見せ所でもあると思われる。

 だから、これ(受験勉強)を、この予備校なり、塾なり、家庭教師なりの力を借りずに、独力で、ある程度以上の結果を残してしまう人というのは、やっぱり、この「勉強」という分野に関して言えば、talent(才能)があると言える。ただ、この能力(学力)と、前述したような「気づき」に気づく能力というのは、ある一定レベルの相関こそあるけれども、必ずしも、そこは比例しない...という見方をするのが一般的だし、実際問題、そのとおりだと言うことができる。つまり、学力があるからこそ、「気づける」部分もあるとは思うけれども、学力以外の分野の能力を使って、「気づける」部分も、大いにあるということだ。