時として、日本語の「大丈夫ですか?」という問いかけに対する応答としての「大丈夫です!」という日本語のニュアンスや意味といったものが、ただ単純に、体調(コンディション)が大丈夫です!という意味合い以外のニュアンスや意味を持ってしまうことがあるのかもしれないと思っている。これは、この「大丈夫ですか?」に対する応答というパターンだけではなく、いわゆる「日常会話」そのもの(それ自体)を、ただひたすらに、取り上げてみたとしても、これが、単なる「日本語」の「ニュアンス・意味」としての意味合いのみではなく、それ以外の「意図しない意味・ニュアンス」を、自然と持ってしまう認知形成パターンというのが、絶対にない...と、言い切れないと思っている。

 例えば、ただ単純に、頭痛で困っていた人が、バファリンを飲んで横になって休んで、1時間ぐらいして、「頭痛」それ自体が収まった時に、保健室の先生が、「大丈夫?」と問いかけたとして、これが、ただ単純に「(頭痛が)大丈夫です」という意味・ニュアンスだけの時に、その保健室の先生が、仮にその生徒の赤点の点数のテストを複数枚、あらかじめ見ていたとして、それ(テストの点数を見られていること)を、その生徒が知らずにいた状態で、「大丈夫です」と答えた場合、その保健室の先生にとって、その「大丈夫です」の意味・ニュアンスとしては、①頭痛が心配ないということ、②赤点のテストが問題ないということ、の二つの意味合いを含めた「大丈夫です」といったニュアンス・意味として、自然と認識されてしまう可能性がある。

 まあ、仮に、これ以外の例をたくさん挙げてみてくれと言われると、そうそう、なかなか思いつくものではないのだけれども、一つの言葉が、時として、二つの意味を持ち合わせてしまう偶然、言うなれば、「偶然の一致」とでも言うかのようなセンスを言葉が持ち合わせるケースがあると思われる。そういった意味では、いわゆる「オヤジギャグ」も、意味をかぶらせるテクニックを使っていると考えられなくもないが、この場合には、あくまでも、「テクニック」として使っているのであって、別に、一つの言葉に、二つの意味・ニュアンスをかぶらせているわけではない。だから、これとは根本的に性質が異なる。

 では、このようなことが、日本語をたくさん知っていればいるほど、言うなれば、日本語に熟達していればいるほど、このような「偶然の一致」の確率が上がるのか?と、言われると、それはたしかに、ボキャブラリーの絶対量が増えているから、その確率が上がるという見方も、できなくはないのだけれど、そういう確率論的に確率が上がるというよりは、むしろ、日本語の微妙なニュアンスを精緻に使い分けることができる確率が純粋に上がるのだから、その結果として、この「偶然の一致」を回避させるテクニックをあらかじめ、自らが身に着けている...という見方をするほうが、むしろ、自然なのではないだろうか。

 言うなれば、同じ日本語でも、英単語で表現したほうが、ちょっとカッコよく伝わってくるようなイメージで、それと同様に、同じ日本語でも、その意味・ニュアンスの微妙な違いごとに、使い分けられたほうが、その「使い分けられる」分だけ、英語にしても、日本語にしても、きっちりと、その意味合い・ニュアンスを分けることができるようになるはずだ。ここに、いわゆる、大学受験で学習する「現代文」の学習の価値というのが、あるのではないだろうか...とも、思ったりする。

 よく、いわゆる「頭の良い人」というのは、数学ができる人だ!みたいな、風潮がどこか、日本においても、海外においても、そのような見方をされるケースが多いようだ。特に、中国・韓国では、理系の大学出身でないと、差別されますよ的な風潮さえあるとYOUTUBEで話されていた。もちろん、頭は良いのかもしれないが、同じ「言語」ベースで、別の人の「理解」を促進することができる能力があるか否か?といった点においては、まったくの別問題だ。数学という数式をベースに考える学問領域においてですら、確実に、文章題の文章に「日本語」が記載されているし、その「数式」の意味を「説明」する際にも、用いられるのは、あくまでも、「日本語」ベースだからだ。つまり、その「理解」というのが、自分の中あるいは、数学といった共通のルーツを持った人同士でしか通用させることができないといった大きな欠点を持っている。

 よく、東大生の家庭教師or医学部の学生の家庭教師をつけておけば、理解が促進されて、必ず成績が上がるはずだ!と、思っている人がいるけれども、もちろん、それはそれで一つの指標や目安にはなるが、サッカーやゲームなどの共通のルーツを持っていることで、勉強に置き換えた場合の「たとえ話」で使えたりであったり、息抜きの時の雑談で、勉強に対するモチベーションが維持されたり...というのも、一方では、大切だったりするのでは?と、ちょっと思ったりもする。要は、「自分が理解しやすい形で説明」してくれる家庭教師が、最も成績が上がりやすいのであって、それは必ずしも、偏差値の高い大学の大学生だから...とは、言い切れない側面も、どこか、あるような気がしてならない...というのは、僕の偏見だろうか。

 もっとわかりやすく言えば、物理学の漫画や、歴史の漫画は読む気がするけれども、教科書や参考書は全く読む気がしない...というか、読んでも、右から左に流してしまう...といった生徒に対して、東大生や医学部の学生の家庭教師をつけるのは、ある意味、ナンセンスだと言わざるを得ない...といったイメージだ。だから、同じ「文章」を読んでも、その「理解」には、やっぱり差が出てしまうものなんだなあ...と、最近、つくづく、感じさせられたりもしていたりするし、ましてや、それが、その生徒にとって、「腑に落ちる理解」になってくれるのか否かということについても、その説明の仕方は、おそらく千差万別だろうし...結局、この「腑に落ちる理解」をできないと、正直、「なんとなく、疲れたり、イライラさせられたりする...」というのは、僕は、SAPのテキストで、かなり実感させられた。「なんで、こんなわかりづらいんだよ!」と、思わなかったと言ったら、ウソになる。「教える」というのは、本当に奥が深いんだなあと。