人と言うのは(自分も含め)、あらためて、いわゆる「暗示」や「観念」や「囚われ」に、いつまでたっても、とらわれるものなんだなあ...と、最近、そう思わされている。過去のトラウマ(traumatic)体験・経験(experience)や、マイナス(minus)・ネガティブ(negative)な、その時々の感情(emotion)を、相当の月日が流れても、むやみやたらと(無駄に)覚えてしまっていたり、その時々のマイナス・ネガティブな感情を、歌に乗せて、吐き出したい!発散したい!と、思ってしまったり、「私は、消極的な暗示にはかかりません(感じません)!」と、断言していたとしても、何回も、何回も、「繰り返し(repeat)」、「暗示」にかかりかねないような、「言葉(language)」や「体験・経験(experience)」させられていると、自分でも、知らぬ間に(無意識のうちに)、その「(ネガティブな)暗示」にかかってしまっている...という事態を、自ら、結果として、自らの力(悪い意味での「力」)で、引き寄せてしまっている...そんな人たちは、非常に多いのではないだろうか。

 アニメ「ONEPIECE(ワンピース)」の中に出てくる「青い鼻」を持ったトナカイ「トニー・トニー・チョッパー」のように、「過去の壮絶な体験・経験」のせいで、いつまでも、その「過去の体験・経験の中の世界観(ある種の(恐怖)観念)」から抜け出せずにいるかのような、「ネガティブ・マイナスな暗示の世界」に、とどまってしまっている人たちというのは、正直、結構、多いのではないだろうか。もちろん、普段の日常生活から、「ネガティブな発言」や「誰かの悪口」を言っている人たちというのは、確率的に言ったら、そうなってしまう可能性は高いとは思うのだけれども、僕が、それ以上に、感じていることは、資格試験など、何か「一つのこと」に打ち込もうとして、本来であれば、遊び友達になれたところを、そこをぐっと我慢して、一人で孤独に、「目標(目的)に向かって頑張りつづける」かのような、そういう学生生活(ただし、大学受験はのぞく)を送っていたり、あるいは、社会人になってからというものの、膨大なタスクの量に追われるように仕事を、こなし続けており、その「忙しすぎる」環境に、自分の身を置いてしまっているがゆえに、周囲の同僚から、「いつも、仕事ばかりしていて、自分たちとは話すつもりがないのだな。」と、思われてしまっているような社会人生活を送ってしまっていたり...といった、どこか、「雑談」や「世間話」・「趣味の話」や「共通の話題を見つけること」から、遠ざかってしまっているような人が、ある意味において、「過去の経験・体験の中の世界観」から、抜け出しきれない「とらわれ」のような感覚(センス)を持つに至ってしまうリスクを抱えかねないのかなあ...とも、思ったりもしている。もちろん、「目的(目標)に向かって、ひたむきに頑張り続ける」こと自体は、素晴らしいことでもあると思うし、その目的(目標)が、人のためになることであるのであれば、なおさら、そうだと言うことができるのだけれども、そのような「目標に向かって、ひた走る」ような生活を、ストイックに続けてしまうことによって、同時に、「ネガティブ・マイナスな暗示の世界」にとらわれやすくなってしまう確率も同時にあげてしまうのかなあ...と、少し思っていたりもする。

 どこか、「さらっと流せばいい」というレベルの話を、「深く受け止め」て、「深い思考処理(深く考える)」をしてしまう...特に、難関と呼ばれる資格試験や、大学受験の浪人生で多浪して、偏差値の高い大学を目指している人であればあるほど、この「さらっと流せばいい」レベルの話を、「深く受け止め」やすい、一種の癖みたいなものが、身に着きやすくなってしまうのではないだろうかとも、思っていたりもする。この場合においても、「深く受け止め」ることそれ自体や、「深く考える」ことそれ自体が、必ずしもわるいというわけではなくて、問題なのは、あくまでも、「さらっと流せばいい」レベルの話を、「深く受け止め」て、「深く考える」という癖が、出て来てしまいやすくなってしまうということだ。

 このような癖が、ついている人は、逆に、「浅く受け止め」て、「ほんの少しだけ、考えてみて、すぐやめる。」といったような癖を、仕事以外の場面で、つけてみたらどうだろうか...と、思ったりもしている。慣れてくるまでは、なかなか、この「浅く受け止める」にしても、「ほんの少しだけ、考えてみて、すぐやめる。」にしても、今までの「癖」が、ついているだけに、逆に、なかなか難しく感じてしまったりもするかもしれないが、それはそれで、「使い分ける」ことができれば、その人自身にとって、少なからず、無用な「とらわれ」や「観念」や「暗示」に、感じにくくなることにも、同時に、つながってくるのではないだろうか。例えば、同じ「アニメ」でも、「深く考察」しなかったり、あるいは、考察のしようがないアニメ「アンパンマン」や「スヌーピー」などのアニメを、日常の中のルーティーンに取り入れたりすることも、実は有効だったりするんじゃないのかな...と、まあ、この時点で、「考えて」しまっているのだけれど。

 もしくは、同じ「考える」のでも、「将棋」や「囲碁」みたいに、シンプルに「先の手を読む」だけの話で、特に、日本語を使って考えるものでなかったりするものも、それはそれで有効なのかな...と、思ったりもしている。少なくとも、そのような「時間」を取り入れることによって、この種の「とらわれ」や「観念」に、とらわれている時間そのものは、減少するはずだ。