皆さんは、traumaticな体験、いわゆる、一般に「トラウマ」と呼ばれるような体験・経験をしたことがあるだろうか。世間一般で認知されている、traumaticな体験・経験が、原因(cause)のメンタル疾患と言えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が真っ先に思いつくことだろう。そして、その原因の代表例が、「兵士としての戦争体験」や「いじめられた体験・経験」が、挙げられる。たしかに、少し想像してみるだけでも、この「戦争体験」もさることながら、この「いじめられた体験・経験」が、小さい頃であればあるほど、そして、その「いじめ」なるものが、辛辣なものであればあるほど、大人になってからも、そのこと(その原因)が、traumatic(トラウマ)となって、何らかの症状として現れ続けて、人生それ自体の足枷になってしまう...という可能性は、当然のことながら、否定することができない事実だろう。

 この二つの事例のうち、正直、「戦争体験」というのが、トラウマになる...というのは、百人が百人とも、「そりゃ、トラウマになるよね」という意見で合致するのは、もはや、説明するまでもないことだろう。しかし、その一方で、「いじめ」というのは、それがたとえ、「壮絶ないじめ」であったとしても、「え?なんで、もう十年以上も経つのに、その体験・経験に、今でも、とらわれてしまっているの?今は、いじめられていないんでしょ?...なら、もう良くない?時効だよ。」という意見は、おそらく、結構、多いのではないだろうか。正直に言ってしまうと、僕もそう思ったりもする。しかしながら、「顕在意識」の上では、「とらわれても、仕方ないし、意味がないし、無駄に時間を浪費させられるだけだし、何の生産性もないし、仮に、いじめられてた過去のことが、一瞬、フラッシュバックしたからといって、それが何だって言うの?それはもう、過去の話でしょ。今現在と未来に向けて、自分が何ができるのか?ということを、もっと生産的に考えていくor行動していく時間に使っていったほうが良いに決まってるじゃん。自分だって、そう思うでしょ?」と、思っていても、「無意識」あるいは、「潜在意識」の上において、「心」の上で、とらわれてしまっている。これは、「神経質」な人が、「頭」の片隅に、どこか「残る」感覚があるのとは、また性質の上で、異なる性質のものだと言うことができるだろう。前者の場合には、ある意味、「notice(気づき)」を待っているかのような感覚がある一方で、後者の場合には、本当に、ただ単純な「頭の片隅にinformation(情報)が残っている」だけで、そこには、「notice(気づき)」を待っているかのような感覚はないと思われる。もちろん、「頭」で「understand(理解)する」ということは、前述の「心のnotice(気づき)」とも、ある一定レベルの相関というか、どこか、相互補完的な関係が、あるような気もしてはいる。このことは、現代の精神医学が、医学だけではなく、心理学も含めて考える必要があるということも、どこか意味しているような気がしてならない。

 前述の事例において、「残る」感覚があるというのは、単なる「information(情報)」に限定して話されているけれども、これが、「experience(経験・体験)」や、「knowledge(知識)」だとしたら、これが、単なる「残る」感覚ではなく、「どこかで、understand(理解)しようと試みる」かのような感覚...が、おそらく、出てくるはずだ。もちろん、車の運転を、「いくら、本で読んで」みても、実際に、運転できることには、つながっていかないように、「understand(理解)する」ことがすべてだ!というのは、それはそれで、もちろん、語弊があるのかもしれない。ただ、前述の「notice(気づき)」と、何らかの関連性(もしかしたら、相互補完性)がある関係上、この「understand(理解)する」ということは、このケースでは、基本的には、避けて通ることができないのでは?と、思わざるを得ないのではないだろうか。

 ここに、「本を読む」つまり、「understand(理解)する」ということの真価があるのではないだろうか。もちろん、「漫画」も立派な本なのだけれども、漫画の場合には、あくまでも、「キャラクター」や「セリフ」を通して、示唆を与えてくれるものであって、本当の意味での「understand(理解)する」に至るものとは、また若干、毛色が異なるというか、実質的には、「示唆」や「言語的イメージ」的なものであって、そのへんが、心理学の本や、自己啓発書とは、大きく異なるところなのだと思う。すごく極端なことを言ってしまうと、これを「心理学」の分野で、徹底的に、行ってきたのが、臨床心理士であったり、産業カウンセラーなんだと思う。だからこそ、臨床心理士や産業カウンセラーをはじめとした心理職の人たちというのは、何らかの示唆を与える言葉だったり、理解を促してくれる言葉だったりを、適切なタイミングで、まるでキャッチボールのボールを投げ返すかのように、(一人で自問自答しているのは、壁を相手にした壁投げだとしたならば)投げ返してくれるのかもしれない。