考えていた。勇気について。

それがどこから生まれてくるのか。

いつ、どうやってそれをつかうのか。





少年は迷っているように見えた。

その場に立ちつくしたまま、

その勇気をつかうか、やめるか。





地下鉄の改札。

人波に押し流される盲目の人は、杖をつきながら方向を見失いかけていた。すれちがう人たちは心配そうに目を向けながらも先を急ぐ。その様子に意を決した少年は、盲目の人を呼びとめた。





どちらへ行きますか?

お手伝いしましょうか?





そんなことを口にしたらしい。声をかけられた人は表情をゆるめ、ひかえめにさし出された少年の腕に手を添わせた。並んで歩きだすふたりの背中を目にしたとき、わけもなく、そのあとを追わなければならない気がした。





にぎやかな地下街。寄り添いながら交わしあう言葉は、でもここまでは届かない。ふたりとも笑顔。たどり着いた先でお互いに頭をさげあって、杖とともに再び歩き出した人の後ろ姿を見送る少年。そのちいさな背中が詰めていた息を深くはき出すと、自分もつられておなじことをした。





こちらへふり返った少年と目が合う。と、自分のやっていることがどこかストーカーじみている気がして焦り、彼とすれちがうタイミングで響いた呼出音にも混乱した。




もしもし、ばあちゃん?




毎年欠かさずこの日に連絡をくれる。食べきれないほどのごちそうで迎えてくれて、他愛もなさすぎる近況を伝える。いい人いたら連れてきなさいよ。その期待に応えられないもどかしさ。





それから間もなく、少年と再会した。クリスマスイヴの夕方。面接。高校生に見えた少年は大学生で、あのとき自分とすれちがったことはまったく記憶にないようだった。







・・・・・







「お待たせしてすいません」





まだ時間になっていないけれど詫びられた。待ち合わせたのはふるい喫茶店。出張のときによくつかう気に入りの店だと言った。





天井、壁、テーブル、照明、床。あらゆるものが木目や茶、オレンジ色のグラデーション。ボルドーを煮詰めたような別珍のソファ。フロアの奥のすみずみまでとけた飴色に染められた店内。





勤務先のアルバイトの男子学生。

その男の恋人(男)と、旅先で待ちあわせる。





連絡先の交換も、呑みに誘ってきたのも彼からだった。異業種交流だと。カウンター席にグラスと肩を並べて、酔いの心地よさの流れでプライベートな話題になったとき、不思議とうれしかった。





「甘いものお好きでしたよね」





飴色の景色のなかに、目の冴えるミントグリーンのちいさな箱。出張中にわざわざ手土産持参。この見た目、この笑顔、言葉を選んだ丁寧でいて気さくな話し方とユーモア。気遣い。印象的な瞳。そりゃ男でも堕ちる。





そんなことを口にしたら和は嫉妬の感情を抱くだろうか。想像した。どんな表情をするのか。





それぞれにそれぞれの事情がある。恋愛なんてどれも似たり寄ったりなはずなのに。同性。その項目がたったひとつ加わるだけで。





たとえばそれは。

誠実な関係を順調に育んでいる幸運。その反面、長男である自分の立場で、男と。相手も姉と妹のあいだで男ひとり。双方の家族に関係を伏せながらも、先へ先へと急ぐ相手。





「雅紀が早く紹介したがってるのはたぶん、家族に嘘ついてるってきもちがぬぐえないみたいで、それはわかるんですけど、…今はまだ…」





学生である相手と、社会に出て間もない自分。そこにたったひとつの項目まで持ち出されて、どのツラさげて認めてほしいと相手の家族に言えるのか。





たとえばそれは。

予想に反して相手の家族に関係が認めてもらえた幸運。このツラさげて言ってしまったその反面、『なにも問題ないわね?』そう問われてはじめて気づかされる。家族のそれ以上に問題とすることが、あるのか。





聞くか迷った。けど彼にしか聞けない。何年も前のことですよ、と、前置きされた。





「まじめでやさしくて、まわりの面倒見はよかったですよ。ちょっと強引なとこがまぁ、なくはないかな、……意外です、大野さんから潤のこと聞かれるなんて」




『やさしいし、超頼れる』友達がいる。それは和にとって望ましいことでこっちが気を揉む必要はまったくなく、同性から見ても激しく男前なことと強引なところはとりあえず無視。できない。





「かずくんに見せてあげたいですよ」


「え?」


「今の大野さんの顔♪」





問題も課題もどこにもない。自分の中にしか。こういうことを話せる相手がいる幸運。





「展覧会どうでしたか?」





話題を変えるほどひどい顔だったのか。旅の目的地である美術館。大学の玄関が向かい合うように立地していた。ぜいたくな場所で学ぶ学生たちをうらやましく思った。





館内に入るとふいに記憶がよみがえる。数年前の春、それはなんの予兆もなく突然やってきた。手がかゆくなった。無意識にかきむしり続けると、熱をもって両手が赤くふくれあがった。手が花粉症になったのかと思った。





医者に行くか迷っているうちに夜が更けて、苦痛をまぎらわすようにボールペンをにぎりしめて手近にあった紙に渦を描いた。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐると。赤くなった手でひたすら。紙が真っ黒になると自分の左手の甲にもぐるぐると渦を描いた。真夜中。そのとき思った。





かけなくなったら?





翌朝。テーブルに突っ伏したまま目が覚めると、なにごともなかったように赤みもかゆみも腫れもひいていた。黒い渦だけが手の甲に残って、台所の洗剤で洗うときれいに落ちた。





あれはいったいなんだったのか。





自分がもらいつづけてきたものを

おなじように誰かに還したい

それは自己満足なのか





自分のこの手でえがいたものが

誰かにとってのなにかになる

そう望むことはおこがましいことなのか





老いも若きも、どんな性別でも

自分の足で歩くことができなくても

呼吸がままならなくなっても、それでも

美しいもののために、人はそこをめざす





この命を還すとき

なにももっていくことができない

だから美しいものをみて

誰にも奪われないものを魂に刻んで

そうやってみんな逝こうとする





美しいものは在りつづける

誰かの手で、時間をかけて、心をこめて

永くたいせつに守られていく

あの絵も、刀も、屏風も、

ここの椅子たちも





今を生きる自分が受けとったものを

遠い未来を生きる誰かに贈りたい

その想いでつないできた人たちがいる

今までも、これからも





幾千年後の魂の救済

そのために





『だって、希望がみえる』





和はそう言った

自分の込めたものが誰かに届く

それを教えてくれたのは和だ

希望だけじゃない、勇気も





自分の両手を見つめる

この手はそれを生みだせるのか

ずっと、問いつづけてる









・・・・・








「どちら選んでもいいと思います」




けど、と、言葉がつづく。




「どちら選んでいい、とも思うんです」






無責任なこと言ってすいません。

ゆうべとおなじ喫茶店のおなじテーブル。朝食をともにしながら彼はまた詫びたけど、その無責任なアドバイスで腹は決まったと伝えた。憑き物が落ちたように軽くなった。





「雅紀ですか?」


「むこうも食事中らしくて朝メシの写真送れーってうるさくて、朝からムダに元気だな学生」





スマホ片手に照れくさそうにつぶやく。「大野さんもはいっちゃっていいですか?」と問われる。かずくんもいっしょにいるんで、と。無性に声が聞きたくなった。





「和」


[え?智?え?お、おはよっ]


「はよ。雷おこしとひよこどっちにする?」


[え?なに?]


「雷おこしとひよこ、どっちが食いたい?」


[…えー、それって二択なの?]




不満そうな声に満足する。




「どっちだ?」


[ちょちょ、ちょ   待ってよ、]




ガタガタと席を立って移動してる。さっきまでの周囲のにぎやかさも雅紀の声も聞こえなくなった。




「二択でそんな迷うか?」


[ちがうって、さ、智っ]


「ん?」


[……あの、]


「…どした?」




小声になって言い淀む。

なにを言われるのか、身構えた。





[     は    はやく  帰ってきてっ、]







*****