東北大震災 | 日々をのほほんと暮らす

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これからをのほほんと行きたいそんな中の人です。

2011.3.11 東北大震災。多くの人の運命を変えた日。あえて小説調に…

 

 3月11日、私は集中治療室で勤務していた。いつもと変わらない日常。いつも通りに過ぎる日常だと思っていた。しかし、同日14時46分 『地震』は突然きていつもの日常を破壊した。小さな揺れから一段階、また一段階と上がっていく強い揺れ。自分は「地震!地震!でかいぞ。」と叫んだ。皆、手の届く範囲のME機器を支えながら揺れに耐えていた。本震が過ぎた後も繰り返し来る余震。落ち着いたと思ったら次の余震。その繰り返しだったと思う。揺れを繰り返すうちに病棟は非常電源の光へと切り替わった。病棟内を患者とその周囲を確認する職員。医師が「県内すごい被害だ。院内もひび割れや天井の抜けがある!」と病棟に来た。病棟へ非番の同僚がぞくぞくと駆けつけた。次第に雪が降り始め、窓から見える鉄塔が雪で白くなり、消えていった。大げさだけど、神様が怒っているように感じるくらいの吹雪だったと思う。F先輩が「お前、嫁の安否わからないんだろ!ならすぐに帰れ!駅の南側で火事が起こってるらしいぞ!」と気遣ってくれた。バタバタと帰宅の準備をしている私に休憩室のテレビは一本の白い線が見えた事を覚えているが、それが岩沼や荒浜に向かってくる『津波』だったと知ったのは震災から3~4日後の自宅に帰った時だった。

 友人から自転車を借り、帰途についたのは17時頃だったと思う。40分程かけて自宅へ。途中、ヘルメットをかぶった人達や興奮気味に話すカップル達。仙台の街は「被災地」となっていた。割れた道路、落ちている看板、道路には積雪、消えた信号、鳴り止まない救急車・消防車のサイレン。いつもの仙台とは大きく異なった風景だった。仙台に来て早2年、いくら地震に慣れてきたからといって、想像はしていなかった。いたたまれない気持ちとなったが

五橋の国道は信号の消えた無秩序な道路となっていた。なんとか車列と人ごみをすり抜けて自宅に帰った。

 自宅に着いてドアを開けると、倒れたスノーボード等が散乱。2階に上がると嫁の姿はなく、ほうじ茶とその瓶が割れていた。新築だったからか自宅の被害は小さい方だった。明らかに人為的に床に置かれた揃いのマグカップや空っぽの貴重品入れ。地震後に嫁が家にいた証拠だった。「あぁ、避難したんだな。」と一度はホッとした。だけど駐車場を見ると、愛車はなく、「あぁ、あいつ行ったな。しかも車で…」と思った。嫁は地震後に祖父の家に行っている、しかも車で。心配事が増えた。自転車(ママチャリ)に再び飛び乗った。家を出ると周囲は暗くなろうとしていた。家を出るときにリュックに詰めたのは動揺してか祖父宅の長期滞在を予測してか、二人の下着と嫁のパジャマだった。

 自転車に乗り、仙台の街を横目に自宅から祖父宅へ。暗くなった仙台市街には車のライトだけが光源となっていた。自宅へ急ぐ人達の群れ。皆、安否確認のために携帯電話を片手にもっていた。法華クラブでは今まさに客室へ安否確認に向かうであろうホテルマン達がいた。コンビニには軒並み人の列。暗い店内で買い出しをしている人達が見えた。皆、必死だ。自分に必死な者、家族のために必死な者、自分を支えてくれるお客様のために必死な者。皆、必死に頑張っていた。祖父宅へ向かいながら、道路に私の車が並んでないか、事故車はないかを確認していく必要があった。しかし、ずっと渋滞している車道を全て確認できるわけはなく、1時間程で祖父宅に着いた。余談だが、嫁は普段30分程で到着するところを4時間かかって祖父宅についたらしい。

 到着後、急ぎ祖父宅へ入った(突入と言っても大げさではないくらいの勢いだったと思う。)するとロウソクの光に照らされながら普段通りにご飯を食べている祖父の姿…。祖父は「あぁ、川平さん。(相変わらず名前を間違っている…)お腹すいたでしょう、ご飯食べなさい。」と。突然来た私に嫁は驚いた顔で抱きついてきた。震度6強の地震にあっても動じない祖父。なぜかきれいに片付いている祖父宅(色々倒れなかったのか?)疑問はたくさんあったが、言葉を飲み込んだ。祖父のみぞ知るといったところか。なんにせよ、二人の無事にホッとした。嫁は震災時、布団の中にいて、倒れそうな46インチのテレビを倒れないように支えていたらしい…。できる嫁だ。(震災直後に自宅に帰った時、倒れていないテレビに正直驚いた。)その後は必要な物をまとめて急ぎ祖父宅へ向かったそうだ。しかし見事なまでに普段とライフスタイルが変わらない祖父だった。2部屋に1つづつカンカンに暖めた灯油ストーブ…。燃料事情を説明するが、なんのその。「寒いだろう。大丈夫だ!」と一蹴…。おいおい…。

 ロウソクと懐中電灯の明かりの中、ラジオの情報に耳を傾ける。初めて聞く被災地の情報。大船渡、南三陸町が津波によって壊滅。普通に暮らしていると「壊滅」という言葉は聞くことがないだろう。気仙沼、石巻、岩沼、名取は津波で壊滅的被害。愕然とした。死者はどんどん増える…。行方不明者は1万人超…。規模が違う。私が今まで聞いたどの震災と比べても間違いなく一番だった。まさに「未曾有」という言葉しか当てはまらないものだった。各地での地震や噴火、様々な報道を耳にしていたが、被害者、行方不明者、倒壊家屋数、どれをとっても群を抜いていた。東北に来て今まで行った事のある街の情報を聞くたびに胸が痛くなった。田舎の人情あふれる街々。14時46分まで普通どうりに機能していた都市は今、なくなってしまった。映像はなく、音声のみでの情報だったが被害情報は耳に痛いものだった。余震はやまない。ラジオからの音声に耳を傾け20時頃に床に就いた。夜から嫁は夜勤のため起きたのは22時位か。車で夜勤へ行く嫁。交通手段がないため仕方ないとはいえ、とても心配だった。不安な顔の嫁を送り出す「気を付けて行くんだよ。頑張って!」と。嫁がいなくなった祖父宅はラジオだけが響いた。被害を聞くと、涙が出る。だけど、逃げずに心に焼き付けておかなければならないと思いラジオに聴き入った。朝にかけても余震は続いていた。悪夢みたいな長い一日が終わった。

 

私はこの3月11日のことを一生忘れない。日本中が混乱に陥った出来事。

被災地の方々の思いを若い私達が感じ、生きていかなければならないと思う。つらいニュースで溢れている日常にも、少しづつ物資の普及や通常のテレビが流れ始めている。しかし、戻ってきた日常に流されるのではなく、こうしている間にも苦しんでいる人達がいることを決して忘れてはいけないと思う。実際にその地を知らない人には身近な事に感じないかもしれない。だけど、同じ日本なんです。必要なところに必要な物を。そして必要な力を!できることは必ずあります。一歩踏み出して下さい。

『助け合おう東北!助け合おう日本!』

私の実家はとても遠い。両親、兄弟、親戚、友達、多くの人からの連絡をもらい、遠くても支えてもらっていることを知った。その人達に「ありがとう」と伝えたい。そして今は帰れないけれど、近いうちに帰って顔を見せようと思う。

最後になりましたが、今回の大震災で被災された方へお見舞い申し上げます。そして、亡くなられた多くの方へお悔やみ申し上げます。

 

ちなみに私の安否確認もネット上に乗せられていた。遠く離れた家族と親戚が無事を祈っていたそうだ。家族と連絡がついたのは数日後のことで、電話ができたのはさらに数日後であった。