ダウンタウン松本人志氏と、考えること。 | 「男であれず、女になれない」~それでも、ハッピー量産体制~

「男であれず、女になれない」~それでも、ハッピー量産体制~

『男ではあれなかった。けれど、女にはなれなかった』
男に挫けて女を諦め、お酒と眠りをこよなく愛し、いつでも人と一緒に生きる。目指す極みは脱二択。

先日から私のTwitter(現X)が目新しいネタに騒がしい。事の発端は文春だそうで、松ちゃんこと、ダウンタウンの松本人志氏を中心とする性加害の話が駆け巡っている。

 

最初に断っておくと、私はもともとお笑いに興味が薄く、特別大好きな芸人はいない。中でもダウンタウンのような強い波長の芸人は苦手で、わりと世代ではあるものの、昔から特にダウンタウンを好きだったタイミングはなかった。同時に好きじゃないけれど避けられる頻度ではないくらいにテレビに出てくるから、よく観るテレビ番組のMCがダウンタウンだったこともあったと思う。それでも好きな芸人と言われてダウンタウンの名前が出てくることはない程度にしか興味はなかった。好きじゃないけれど、いても不快と言うほどじゃないというのが、今までの私のダウンタウンに対する感情だった。

だから、このニュースが流れてきても驚くこともなく、それは私がダウンタウンに対して持っていたイメージから離れることもなく、「さもありなん」くらいにしか思うことはなかった。

 

少しずつ私の中に違和感のようなものが芽生え始めたのは、この話題が広がりを大きくして、私のタイムラインにニュース以外の、見知らぬ人の意見が散見され始めたころだろうか? 

私がダウンタウンのファンではないことが影響しているからか、それとも私がいわゆる左派の方に関心を持っているからだろうか、私のTLに溢れた言葉に松本氏を擁護するものは少なかった。それどころか、わりと強い言葉で松本氏を非難する言葉が溢れかえった。それらを流している間に、少しずつ私の中で違和感が育っていった。

 

文春砲がさく裂してのち、松本氏の反応は最悪だったと思う。正直、こうして反逆児は権力者に育ち、いつしかふんぞり返ることが当たり前になって社会の感度をかぎ取る能力が薄れるのだろうと思った。正直なところ、これがいわゆる老害と言うものなのだろうとさえ思った。だから擁護する気持ちになることは全くなく、時代についていけない人になったんだなと判断するに至った。

 

でも、違和感が拭えなかった。なぜだろうか?

 

私が違和感を抱えた相手は松本氏ではなく、松本氏を徹底的にたたく人たちだった。

辛辣だった。おそらく間違っていなかった。正しさを背負っているから切れ味がどこまでも鋭かった。松本氏を糾弾する意見は、そういった類のものだった。

 

ところで私たちは、それでいいのだろうか?

 

悪を見つけて定義して、正義を背にして攻撃することが、私たちが社会に対して責任を持つことなのだろうか?

 

ダウンタウンが人気者なのは、今に始まったことではない。私が高校生くらいの頃から大人気だったから、概算でも30年くらいは日本のお笑い界のトップレイヤーにいたことは間違いないだろう。

そうしたダウンタウンを作ったのは誰だろうか? と考えている。

これを好機とばかりに昔のテレビ映像などが流れてくる。今の私が観れば醜悪以外の何物でもないと、人権意識や女性への敬意が一切感じられない、性加害の一つに数えられて妥当だろう不快な映像だと思うものばかりだった。

そう思いながら振り返って考えた。

この映像がテレビに流れた当時を振り返って、間違いなく私は今の気持ちを抱かなかっただろう。言い訳ではなく事実として、そういう時代だった。その時代を支持した一員として私は存在した。私は同じ映像を30年前に観たら、何も思わずに、もしかしたら笑って過ごしたかもしれない。そうした空気が今に繋がっている。30年前の映像を否定できるのは、今の私だからに他ならない。

 

当然のこと、告発者を責める気持ちは微塵もない。告発者を責めることで松本氏を擁護する意見の加害性については強く非難する。同時に、当時の自分が時代を支持した加害者側にいたことを強く意識する。今の私が過去の彼らを引っ張り出して糾弾することは、何かが間違っているとさえ感じている。それこそ課題の矮小化ではないかと危機感を覚える。圧倒的に多くの人が社会を支持し、ダウンタウンを今の地位に押し上げたのだと、それもまた今回の告発に繋がる加害行為の一端だったのではないかと考えている。私とて決して正しい側の安全地帯にいるわけではない。責められる立場にない。その気持ちは拭えないし、忘れるべきではないと思う。

 

だから考える。

今、私たちがすべきことは、告発者が更なる痛みを抱えることのないように寄り添うことであって、勢いに乗じて松本氏を糾弾することではない。意識すべきは、自分が正義の側にいることではなく、加害側を支持した過去を持っていることだと思う。

そんなつもりはなかったとしても、今の地位にあるダウンタウンを、松本氏を作り上げたのは、社会の一人ひとりだ。

文春が報じる内容が事実ならば、それを受け止め、振り返り、学び、悔いて、向き合うこと。そうした一連が求められているのは、松本氏だけではない。我々もなのだろうと思う。

 

先に記したように、文春砲以降の松本氏の言動はどうしようもなく間違っていると思う。最悪の域を出ない。その点においては私も強い非難の思いを持っている。それが言えるのは、今に限定しているからに過ぎない。

ただ、過去を通してこうした状況を作り上げた一員でもあろう私は過去の何かを責められる立場にはなく、これからも学びを続けていくことを求められているのだと痛感する。学びの不足によって生じる加害を少しでも減らすために、これからも教育の重要性を考え続けていかなくてはならないと思っている。