先日、神との対話を再読(5回目)をした際に「第一章」に深い真実が書かれていることに気づきました。
一番最初に一番深い真実が書かれているから『神との対話は難しい』とされるのはないかと。
裏を返せばこの第一章を読みこなせれば、神との対話は読みこなせるのです。
この詳細記事を読んで、難しさを払拭して神との対話の世界観を堪能して下さい。
その時、あなたの視座はひとつ上に上がることでしょう
※この記事、神との対話①第一章詳細解説記事を創るきっかけはこちら
P99
『もちろん、社会全体がある考えをもつようになれば、しばしば驚くべきことが起こる。必ずしも、社会を構成する全員でなくてもいい。たとえば、不安と怖れのなかで暮らしている社会にはー実際に、そして必ずー最も恐れられるかたちの恐怖が生まれる。
同じように、大きな共同体や集団が考えをあわせることで(あるいは一部のひとたちが言うように、同じ言葉で祈ることで)しばしば奇跡がおこる。
たとえ個人でも、その考えがー祈り、希望、願い、夢、不安がー驚くほど強ければ、奇跡的な結果を生み出す。イエスはたびたび、これを実践した。彼は、エネルギーと物質をどう扱うべきか、どう組み合わせなおし、配分しなおし、コントロールするかを理解していた。多くの〈マスター〉もそれを知っていた。いまでも知っているひとはおおぜいいる。
あなたもそれを知ることができる。たったいま。』
あなたは自分に「奇跡的な結果を生み出す力」があることを信じられますか?
神は言っています。「創造力」という能力を人類に与えた。
マスター何度言っています。「同じことが出来る」と
これだけ言われているのに・・・
「信じない」ということは簡単で、その信じない世界が創造されるだけなのです。
まずは、信じてみるところから始めてみませんか?
『それが、アダムとイヴが食べた善悪を知る知恵の実である。それを知るまでは、あなたがたのいまのような人生はありえなかった。アダムとイヴはーこれは単に、最初の男と最初の女にあなたがたの神話が与えた名だがー人類の経験の父と母である。
アダムの堕落と説明されているものは、じつは向上だった。人類の歴史で最も偉大な出来事だった。それがなければ、相対性の世界は存在しなかっただろう。アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だったのだ。あなたがたは、彼らがはじめて「間違った」選択をしてくれたことを心の底から感謝すべきだ。アダムとイヴは、選択を可能にしてくれたのだから。』
果実を食べる前は「善」しか無かったので、それでは「善」が体験できないのです。
食べてはいけないのに食べたという「悪の行為」をして、初めて「善という行為」を体験できたのです。
この世界は「相対するもの」によって体験が出来るようになっているのです。
だから神は何度も「悪」という判断をしてはいけないと言っているのですね。
「悪」が「善」を知るために必要だとしたら、それは真の意味では「悪」なのでしょうか?
ここに「幻想の世界」と「究極の世界」も描かれています。
幻想の世界⇒悪が存在する
究極の世界⇒悪は善を知るための必要な行為であり、真の意味の悪ではない。
いつもみんなが究極の世界を見れれば、今の世界は大きく変わるでしょう。