読了 始まりの木 | 思った記

思った記

主に
日々の雑記。

ときどき
読んだ本のこと。
描いてみた絵。

出不精おばちゃんの
狭い世界での、頭の中。






国立東々(とうとう)大学 文学部 民俗学部。

指導教官 准教授、民俗学者の 古屋神寺郎 と
学部生 藤崎千佳。
 
この二人の師弟を中心に、話は進んでいく。



偏屈で、毒舌。
そのせいで学会内に敵の多い古屋准教授は
しかし優秀な民俗学者である。

とある事故で不自由となった片足を
引き摺るような歩き方をするが
それをものともせず

彼はステッキをつきながら
"日本人の神"をテーマとしたフィールドワークのために
日本全国を飛び回る。



それに荷物持ちとして同行し、振り回される
学部生の 千佳。
 



「藤崎、旅の準備をしたまえ」




古屋のこの一言で

"現代日本人の失ったもの" を問いかける
そして

民俗学とはなんなのか の意味をつきつけられる

二人の旅が始まる。



ときに、理屈の通らない
不思議な出来事に出会いながら。








購入してから
読まずにプールしている積読本の中に
しばらくずっと放ってあって

読む順番がきた(たいてい買った順に読む)
ので

久しぶりに手に取った一冊。




改めてみると
表紙は地味だし

裏表紙の、作品あらすじを読み返してみても
(買うときは、この 裏表紙のあらすじを読んで決める。)
 

正直、なんでこの本買ったんかな と
そそられなかった。



でも順番来たし。
買ったからには読まんと、もったいないし

で、半ば渋々読み始める。




ところが

読んでみたら


この本、わたしにとっては
ヒットであった。



日本人礼賛の書 である。


それも
ことさら
「日本人優秀!日本人スゲー!!!」的に
熱く扇動的に持ち上げるような空気感

ではなく。




民俗学者 古屋准教授の研究テーマである
"日本人の神" に照らして



(いにしえ)の日本人が
神をどのように捉えていたか。


それを視点に

当時の日本の人々に備わっていた
謙虚で真摯な気質を描き出して

静かに 
しかし 熱をもって、礼賛しているのだ。




古い日本の神々は

かつての日本人によって

山や巨木、巨岩や
そこかしこの身近な自然の中に見出された。

時に理屈の通らない
不思議な出来事の中に見出された。




古い日本の神々は
大陸の神のように

ヒトに 

あーしろ、こーしろ
アレはダメ、ソレもダメ と

何かを押し付ける教義など 持たない。



そこに 在る のみ
だったのだ。



積極的に
ヒトに教えを説かない

ヒトを律することのない

ただ、そこに在る 神。




それに何の意味があるのか。
神の意味があるのか。




あるのだ。あったのだ。




注連縄をしめた巨木や巨岩に宿る
遠く近くに仰ぐ霊峰に宿る
生活の場の、片隅にある祠に宿る

人々の すぐ身近に居ただけの

古い日本の神々は




向き合い、手を合わせ、祈るときに

人が人として自らの生き方を顧みる指針として
そこに在ったのだ。




神が、教義で人を縛るのではなく。



人が

神に見られて己はどうであろうか?と
自らの内を照らし 見つめ

そうして、自分が良い と思う生き方を
自らで 選ぶ。


その 灯り として
在った。




それは
自助 だと思った。



神がなんとかしてくれる
とかいう、他人任せじゃなくて。


神の名のもとにおいて
などという、聞こえの良い責任転嫁じゃなくて。



決めるのは
神じゃない。




日本人の神 とは

祈りを捧げつつ
自分は どう生きるか、どう振る舞うかを

自分で見定め
自分で決めるための


道標であったのだ。




はじめに、これは日本人礼賛の書だと書いたが


礼賛されているのは
現代日本人ではない。



むしろ、今の日本の人々の多くは

そこかしこの自然の中に在る
美しく威風堂々たる神を "感じる" ことをやめ



目に見えるもの だけを支持し

その結果
わかりやすい表面的な浅い視点に終始して
物事を判断するようになった。



発展のために

巨木を切り倒し、巨岩を排し
山を荒らし
数多の小さな祠の存在や謂れを忘れ去り

神々を
放棄して
失ってきた。



それは

己の生き方、姿を省みることの
喪失ともいえるのではないか。




そうやって
自分の内の神を殺し


なんでも
目先の利益 "だけ" で
ものごとを 決めていないか。


自分以外の 誰かや 何かの存在を
軽んじてはいないか。


自分の権利!自分の利益! もしくは
あいつが悪い!そいつのせいだ! 
ばかりに、なっていないか。




そりゃ、自分があってこそ
生きる喜び、楽しみがあるのだが。

自分自身も 大事なのだが。



肥大しすぎる自我は 醜い。
膨れ上がるだけの 欲望は 危うい。

それをほどよく抑え。
(未熟者なんで、わたしは 完全に は ムリとして。)



日常の中に
"神を感じ取る" ことができ

その神を意識することで

迷いながらも
"自らの行い"を自分で律していた


かつてのような
真摯な日本人でありたいと


思わされた一冊だった。






傲慢であることは

何よりの罪である…

というより


己の首を締める最大の愚行
ではないかと

思わされた。




より都合よく
より有利に生きてるつもりでいても

傲慢な考えと、行いの ゆく手に待つものは

はたして。