君死に賜うことなかれ。 | 陽気なインチョの日常と回診

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ふくやまです。 タコとタイと子午線のまち・明石(兵庫県)の小さな病院の院長です。消化器外科医で緩和ケアをやっています。マジメ2割+小ボケ8割のブログですがよろしくお願いいたします。

今年急増、医師の過労死6人背景に医師不足・負担ピーク
(
読売新聞 - 1213 03:13)

日露戦争のときでしたっけ? 


与謝野晶子は弟に向けて 

こう詠いました。 


いま、全国の医師 

特に病院勤務医にも言いたい。 


死んじゃだめ。 

死んで花実の咲くものか。 


ふくやま病院
を一代で作った父は 

子供の目から見ても 

信じられないほど、よく働きました。 


毎日の外来。 

毎日の検査、手術。 

一番多くの受け持ち入院患者様。 

50
歳を過ぎるまで 

ほぼ一人で当直をこなしていました。 


院内にあった自宅に帰ってくるのは 

いつも11時ごろで、 

いつもカルテやレセプトや書類を山ほど抱えての 

帰宅(?)でした。 


60
を迎え、 

病院の改築と共に 

ようやく自宅を病院から切りはなし、 

それでも300mぐらいの距離に 

引っ越しました。 


自宅が離れた分、 

朝はさらに早く自宅を出るようになり、 

6時過ぎには病院に入っていました。 


引っ越して1ヵ月後。 

冬の朝に 

父は脳出血を起こしました。 


何とか 

命は取り留めたものの、 

右半身麻痺と言語障害が残りました。 


「もうちょっと仕事をセーブしてたら 

 よかったけどなあ」 

周りの方々からも 

そう、言われました。 


皆さん、父を本当に気遣い 

心配してお話いただき、 

頭が下がりました。 


そのとき、 

僕は医師になって3年目で大阪の病院に勤務しており、 

弟は三重で医学部の最終学年でした。 


たくさんおられた入院患者様 

外来患者様も激減し 

病院を続けるのも断念しようかと 

考えるほど、 

苦しい時期でした。 


自分がふくやま病院に戻るときに 

まず、 

医師の当直明けを休みにしました。 


そのときの常勤医は4名しかおらず、 

その1名が朝で帰ってしまうのは 

大変でしたが、 

非常勤の先生方のご協力を仰ぎながら、 

何とか1年目から行いました。 


これ以上、 

同じような犠牲を出したくなかったから。 


今、小さな病院なのに 

その倍の常勤の先生が来て支えてくださります。 


一人一人にかかる負担を減らしながら、 

全体の力でよりたくさんの地域貢献を成し遂げたい。 


日本の医療は 

いままで無理な形で支えられていた 

部分もあります。 


父が倒れて 

10
年が経ちました。 


「あんまり、がんばりすぎないように」 

今は車椅子に乗った理事長は 

僕に笑いながら、言います。 


「大丈夫。 

 お父さんほど丈夫じゃないから 

 ほどほどのところで止めてる」 

父の背中は 

あまりに大きく、遠く、 

いつになっても追いつけそうにありません。 


医師として頑張ること。 

でも、 

限界を超えて頑張りすぎないこと。 


自分の中でも 

父はどうするべきだったか、 

僕たちはこれからどうするべきか、 

まだ整理がついていません。 


不器用な生き方しかできなかった父です。 

今でも毎日、病院に出てきて 

患者様と話をするのが 

一番の楽しみです。 


ただ、僕は 

そんな父を誇りに思います。 


今年急増、医師の過労死6人背景に医師不足・負担ピーク 
(
読売新聞 - 1213 03:13)
 勤務医の過重労働が社会問題となる中、過労死や過労自殺による労災や損害賠償を認められた医師は、今年に入って計6人に上っていることが、過労死弁護団全国連絡会議(幹事長・川人博弁護士)のまとめで分かった。 


 1970年以降で同会議が把握したのはこれで21人。労災の認定基準が緩和されたことを差し引いても、今年は突出している。川人弁護士は「医師不足などを背景に、現場の負担はピークに達している」と指摘。医療現場には過労死など遺族が言い出せない雰囲気があるとして、「認定されたケースは氷山の一角で、労働環境の改善が急務だ」と訴えている。 

 6人は1996~2006年に亡くなった20~40歳代の医師で、うち4人は03年以降の死亡だった。死因は、3人が急性心不全や心疾患などの病気、3人は自殺。補償の内訳は、労災認定が4人、訴訟での損害賠償の認定が2人だった。診療科別では麻酔科、小児科、研修医が各2人。