さて今日のテーマは

 

「させてくださって、ありがとう」ということで

 

ブッダのお話からです。


小林正観の著書より、ご紹介します。


<引用開始> 引用元

ブッダを取り巻く集団(サンガと呼びます)は、

 

当時できるかぎり自分でできることは自分でやり、

 

どうしても自分ではできないことを

他人にやってもらうという形をとっていました。



ブッダを取り巻く集団では、

何か人に頼むとき、

こういう呼びかけをしていたらしいのです。

「誰か、私に施しをし功徳(くどく)を積んで、

幸せになりたい人はいませんか

誰かに「施し」をすることは、

 

「他人のため」ではなく、

 

「自分のため」であったというのは

 

驚くべきことです。

当時のブッダの集団は、

 

小さな布切れを拾ってきては

それを縫い合わせ、

 

それぞれの人の衣にしていました。

あるとき目が見えなくなった弟子が、

布切れを縫い合わせて衣を作ろうとしました。


しかし、まず最初のことである、

「針に糸を通す」ことができません。



彼は、大きな声で、

 

「どなたか、私に施しをし功徳を積んで、

幸せになりたい方はいませんか」と

周りの人に呼びかけました。


すると目の前を通りかかったらしいある人が、

 

「私にやらせてほしい」と言いました。

「えっ、その声はお師匠様ではありませんか」


ブッダが、ちょうどその弟子の前を通りかかったのでした。



「それはそれは、大変、失礼なことを申しました。

お師匠様にそんなお願いをするわけには参りません。

 

今の言葉はお聞き流しください」と、

その弟子は言ったそうです。

まさか、ちょうどブッダが通りかかるとは思っていなかったでしょう。

 

慌てて驚き、恐縮した気持ちは理解できます。


弟子から「そんな大それた」と言われたブッダは、

 

その時こう言いました。

「なぜだ、なぜ私ではいけないのか。

 

私だって幸せになりたいのだ。

 

私だって、もっと幸せになりたい」



ブッダは、ありとあらゆる執着を離れることができ、

 

すべての苦悩・煩悩から“解脱”した方です。

何も悩みはなく、

十分に幸せになっていた人でした。


その人が、「私も幸せになりたい」と言ったというのです。

なんと素敵な一言でしょう。

よく考えてみれば、

 

ブッダは仏教徒ではなかったし、

イエスもクリスチャンではありませんでした。

仏教典はブッダの死後700年も経ってまとまったものでしたし、

 

キリスト教の聖書も、

イエスの死後300年も経ってから編纂されたものでした。



ブッダもキリストも「宗教者」ではありませんでした。

 

宗教者ではなかったけれども「実践者」でした。

2人とも、組織、教団。グループを作り、それを維持し、

それで食べていくために、

 

人々の精神を恐怖で縛り、依存させ、

延々と続く、依存や、執着の蜘蛛の巣をつくろうなどと

 

微塵も思っていなかったことでしょう。

 

自分で考え、自分の足で立ち、

自由で、自立した人間になって欲しいと願っていたのでした。

 




「幸せになりたい方はいませんか」という呼びかけは、

 

「私」だけでなく、

周りの沢山の人を「幸せ」にしていくようです。


何かをしてもらって「ありがとう」と言うのは、

 

「ありがとう」の言霊の凄さ

半分くらいしか使っていないのかもしれません。

「ありがとう」は、してもらった時だけでなく、

 

こちらがしてあげた時、

 

させていただいた時にも使えるのです。



「させてくださって、ありがとう」

人のためではなく、

 

自分からしてあげることで

 

沢山の「ありがとう」(させてくださって、

ありがとう)を言うことができるというのは、

 

何とも楽しいことではありませんか。

<引用終了>

 



あんなにしてやったのに 「のに」がつくと

愚痴が出る。相田みつをさんの言葉です。


「させてくださって、ありがとう」の反対は、

 

「(こんなに)してやったのに」という言葉。

「(こんなに)してやったのに」、

 

「ありがとうと言われなかった」、

 

「感謝されなかった」と愚痴や文句を言う。

でも
「させて頂く機会をもらった」と思えるなら、

 

そこに「ありがたい」という感謝の気持ちが生まれてきます。



日常生活の中の掃除や、

片づけ、食事の支度など、

 

様々な小さいけれど大切なことに、

 

つい面倒だと思ってしまうこともあるかもしれません。


ですが、人の為に何かをさせて頂くことは、

 

一つ一つが功徳を積むことです。

「させてくださって、ありがとう」

 

感謝の気持ちで言える自分でありたいものですね。



家族の中にお一人でも

このような気持ちの方がいらっしゃれば、

 

きっとそのご家庭や、

それから長く続く子孫・家系を含め、

 

幸せの種をまくことになるでしょう。

 

血のつながりの子々孫々、

お幸せな家系になります。

誰かのためにした行為は、

巡り巡って自分に帰ってきます。

 

どなたかにした親切な行いは、

 

巡り巡って、いつか自分が親切にされるという

現象として帰ってきます。

 

 

誰かを幸せな気持ちにさせてあげれば、

 

いつか自分も誰かに幸せな気持ちを分けていただけます。

 

この宇宙に存在するものは、

全て繋がっています。人体と同じです。

 

一つ一つの細胞は、

一人一人の人間は、

 

それぞれ独自の役割、個性を持っており、

 

それらが助け合い、連携することで、

 

調和して維持され、

進化していくことが可能になります。 

 

 

一つとして、誰一人として、

 

無駄なものはありません。

 

神さまは決して無駄なものを創造しませんから。

 

みんな大切なものです。


「俺が俺が」、

 

「私が私が」ではなく、

 

周りの方みんなを大切に思い、

 

お互いの個性を否定せず認め、

 

お互いさまの心、

お陰さま心で歩んで行きたいものですね。

 

そのような心持こそが、

 

ご自分自身が幸せにしてくれる、

真の秘訣なのですから。

 

 

生きている、

みんなが 幸せでありますように。

笑顔でありますように。

助け合って 生きて行くことができますように。

お互いさまの気持ちで 生きて行くことができますように。

随神の道(かんながらの道)を 歩むことができますように。

誰一人として、
孤独で寂しい瞳をしている人が居ませんように。


皆さんと、皆さんのご家族が、そして、お友達が、
 
お幸せでありますように。
 
輝く笑顔でありますように。

 

 

※画像はネットからお借りしました。