中国の古典に和氏の璧と言う故事があります。

昔むかし、卞和(べんか)という名のおじいさんがいました。
卞和はある日、磨くとたいそう素晴らしい宝石になる原石を見つけました。
こんな素晴らしい原石だから、是非王様に献上して喜んでもらおうと、王様に持っていきます。

しかし、原石を見た王様は怒り出します。

「なんだ!このジジィは!わしに向かって石を持ってくるとは不届きな奴だ!このジジィの左足を罰として切ってしまえ!」

かわいそうに卞和は片足を切られてしまいました。

しかし、素晴らしい原石だと信じている卞和は、別の王様に認めてもらおうと、また持っていくのですが、結果は同じで、今度は右足を切られてしまいます。

両足を切られた卞和は原石を抱いて三日三晩泣いていました。
泣き続けている老人がいると聞きつけた、別の王様が卞和を訪ね、卞和の言う通り原石を磨いてみると、この世のものとは思えないほど素晴らしいものが出来あがりました。

この璧(へき:古代中国の王族が愛用した宝石)
を王様は卞和の一字を取り、「和氏の璧」と名付けました。

後年、和氏の璧を使って職務を全うできた逸話から「完璧」という言葉が生まれました。

このおじいさんの話からはいくつかの意味があると思います。
いくら優れた原石でも認めてもらわないと、なんの使い道も無い。という事と、最後に磨いてみた王様から見ても、原石ではただの石ころでも、磨いてみないと分からない。という事です。

先日、芸能事務所のナベプロの会長さんが、

「才能のある芸能人って原石の時から見れば分かるものなんですか??」

という質問に対し、

「原石の段階ではたくさん見てきた私でも分かりませんよ。彫刻だってある程度掘ってみないと、素晴らしい素材と技術が両方備わるかは分からないのと同じで、人もある程度磨かないとその人がスターになるかなんて分かりませんよ。」

と答えておられました。



卞和のようにただの原石を見て、将来の才能を見抜けるなんて普通はできないという事です。
ある程度は研鑽を積んで才能が見えるくらいにならないと、本当にその道の才能があるかなんて周囲の人も理解してくれない。と思います。

だから、自分の才能を見極めるのも、ある態度はやらないと判断のつきようがないのです。

僕は人間は好きな事ならある程度才能を秘めていると思います。
それを磨いていってどの程度の才能があるか初めて分かります。

それを好きなのに結局自分で磨きもしない。もしくは、ちょっとしか磨いてないのに嘆いているのも無駄な労力とも言えますし、嘆いていなくてもそれで乗り切ろうというのも、そんなに世の中甘くは無いと思います。


いくら卞和に見出してもらったとしても、磨かなければ、道端の石ころと同じですからね笑笑

それに道端の石ころだったとしても、磨いてみるとスターにはならなくても、ほとんどの石はキレイだな。って感じるくらいの石にはなると思いますよ!