ある女性の話。彼女は10代の頃からヒドい生理痛に悩まされていました。そのたびに動けないほどの激痛と闘いながら日々を過ごしてきました。
もちろん病院にも行き、薬をもらって対処はしていましたが、生理の度に「あの痛み」と闘い続けてきました。彼女の抱えた病気は子宮内膜症でした。
そんな彼女も20代になり、恋人ができ、結婚の前にちゃんとした検査を受けることにしました。子宮の状態、卵子はちゃんと作られるか、子供は産めるのか?
その結果「普通より子供は出来にくい」という診断でした。決して出来ない訳ではない、けれども普通より確率は低い。彼女とその母親は、その不遇に涙を流しました。
彼女の夫となる男性は「可能性はゼロじゃない!きっと僕らには子供が生まれる」そんな希望を抱いて彼女と結婚しました。そんな彼女たちに待っていたのは「普通ではない結婚生活」でした。
彼女は、結婚当初から不妊治療のため病院に通い始めました。子どもが出来にくいと言われた時から「妊娠のためだったら何でもやる」という覚悟で、すぐさま取り掛かったのです。
最初の治療は「タイミング療法」。排卵前後のタイミングで性行為を行い、受精の確立を高めるという方法。毎日の基礎体温を測ることが、彼女の最初の治療でした。毎朝毎朝起きた瞬間体温計を取り、体温を測り、記録する。それを1ヵ月続けて、「この日」というタイミングで性行為をする。機械的にならないように夫婦は意識して、臨みます。次の月の生理周期までは、結果は分かりません。毎日ワクワクしながらも、どこかで不安を感じながら待つのです。
そんな生活を2年続けました。
2年続けたということは、24回の落胆があったわけです。生理が始まるたびに、彼女はひどく落ち込み、自分を責め、またあの痛みと闘わなければなりませんでした。そして、子宮内膜症の影響からチョコレート嚢胞という、子宮内に血液の塊ができる症状とも闘わなければなりませんでした。
チョコレート嚢胞は、生理の度に大きくなっていきます。そして、一定の大きさになると子宮内で破け、出血します。その痛みは生理痛の非ではありません。あまりの痛みに立つことは出来ず、嘔吐し、その場から動けなくなります。そんな痛みを彼女は2度も経験しました。
次の治療は体外受精でした。採取した精子と卵子を人工的に受精させ、それを子宮へ戻すという治療です。治療費は跳ね上がります。しかも、その治療は彼女の家から2時間以上離れた大学病院でしか出来ませんでした。彼女とその夫は、月に1-2回、多い時は3回以上通わなければなりませんでした。
1回目の体外受精は上手くいかず、医師からは次の治療まで少し間を空けてリフレッシュしようと提案されました。気持ちは途切れていませんでしたが、これまでの長い治療生活から、少しだけ休む感覚になれたのです。
そのお休み期間中に、彼女は初めて妊娠しました。
自然妊娠できたことに夫婦は喜び、これまでの辛い治療が嘘のように心は晴れやかになりました。多くの周りの人たちに助けられて不妊治療をしていたので、お世話になった人へ妊娠の報告もしました。
しかし、妊娠2カ月目に彼女のチョコレート嚢胞は破裂しました。
彼女は緊急入院し、24時間の点滴を受けながら治療を受けました。痛みは収まりましたが、お腹の子の心音はまだ聞こえません。医師からは、もう少し様子を見ながら、しばらく入院しましょうということになりました。入院中の妻はもちろん、仕事をしながらお見舞いに行く夫も、今までにないくらい不安な夜を過ごしました。
それから1週間、医師からは「お腹の子はもう…」と告げられました。彼女は、1度退院して、後日お腹の子を取り出す手術を受けなければなりませんでした。退院して帰宅する時、夫婦は何を言葉にして良いか分かりませんでした。何も話せませんでした。
そして、次の治療は卵巣を摘出することでした。子宮内膜症は生理の度に大きくなり、チョコレート嚢胞はそのたびに形成されていきます。医師は、これまでの経緯から、悪影響を及ぼしている卵巣を摘出したほうが、妊娠しやすいという結論を出しました。夫婦は、「出来ることは何でもする」と決めていました。手術を受けることにしました。結婚から4年の月日が流れていました。
手術から1年程経過して、彼女は2度目の妊娠をします。
その子はお腹の中で順調に大きくなり、10カ月後無事この世に生まれてきました。夫婦が愛し合って、心から望んで生まれてきてくれた子として「愛望(まなみ)」と名付けられました。結婚から6年目の春でした。
夫は医療従事者でした。それまで医療とは、人の体を良くするものだと信じて疑いませんでした。しかし、自分たちの不妊治療の経験から、それは本当なんだろうか?と考えるようになります。本当に西洋医学だけが妊娠を促す方法なんだろうか?本当はもっと自然に授かる方法があるのではないか?
それから西洋医学に頼らない体の整え方を学び始めます。自身の目指す医療を伝えるため、医療機関を退職し、独立しました。1人目の娘の名前と、2人目の息子の名前「春仁」から1文字ずつ取って「仁愛クリニカルルーム」というお店をオープンさせ、多くの一般の方や医療従事者の前で、健康のこと、体のこと、心のことを伝え続けています。