稲盛和夫さんがニューヨークの開塾式で、

経営を大成さえる4つの心得について述べられている。

 

1 謙虚にして驕らず

現在は過去の結果、将来は今後の努力で。

才能は私物化してはいけない。

才能は集団のため、また世のため人のために使う。

 

2 思いは実現する

善いことを思えば必ず良い結果が生まれ、

悪いことを思えば必ず悪い結果を招いてしまう。

独りよがりで、エゴの固まりとなった思念は、

いずれ必ず自分の身を滅ぼす。

因果応報の原則

 

3 宇宙はあらゆるものを成長発展させる

宇宙には、森羅万象あらゆるものを進化は発展させようとする力が働いている。

素晴らしい努力をしたすべてのものを、必ず成長発展させる自然の力が、

この宇宙には流れている。

同時に、この宇宙には調和をとろうとする力も働くようになっている。

 

4 利他の心が調和をもたらす。

美しい心を持ってさえいれば、

宇宙や社会と調和しながら進化発展をしてゆく。 

京セラの決算書の特徴は次の3つとされています。

1 減価償却(自主的耐用年数の採用)

通常、決算は法定耐用年数に応じて処理されるが、

設備の物理的、経済的寿命から判断して自主的に

耐用年数を定めて償却を行う。

 

2 セラミック石ころ論

通常保有期間が12ヶ月を超える棚卸資産はすべて、

滞留もしくは陳腐化しているものとみなす。

また、保有期間が12ヶ月に満たない卸資産についても

評価減を行うことがある。

 

3 棚卸資産の評価(売価還元原価法)

原価を積み上げていく方法とは逆で、

商品群の原価率の結果を算定し、

その原価率を期末の売価に掛けて、

棚卸資産の原価を逆算的に算定する方法を採用している。

稲盛和夫さんは昭和30年に鹿児島大学工学部を優秀な成績で卒業された。

しかし、不況も手伝って、稲盛さんに門戸を開放する会社はない。

京都の光風工業という会社に勤めらることになるがいつ倒産してもおかしくない赤字企業。

稲盛さんもいっとき辞めて自衛隊に入る決心をされる。

ところが兄の反対で思いとどまることになる。

ファインセラミックという新しい分野に一心不乱で研究に没頭した稲盛さんは、

日本で初めてという真空管に使う絶縁体の開発に成功され、

松下電子工業に製品を納入される。

ところが新しく来られた部長とそりが合わず退社をされることになる。

ところが、稲盛さんの技術に注目した人たちが会社を作ってくださることになる。

昭和34年のことで、まだ大学を出て3年ほどしかたたない人が取締役技術部長となる。

京都セラミック(後の京セラ)は稲盛さんの技術を世に問ういわばベンチャー企業であった。

それが今や売上1兆6千億の会社になっている。

 

電電公社が独占していた電話事業への参入を企図されたのが昭和57年頃。

巨大な電電公社に立ち向かう京セラに果たして勝算はあったのか。
動機善なりや私心なかりしかと自らに問い続け参入を決意される。

 

昭和60年、稲盛さんは携帯電話への参入を企図される。

この時、周りの者、ほぼみんなが反対されたそうである。

それほど、移動電話というのはちっぽけな存在であった。

ところが、稲盛さんには、将来のポケットサイズの携帯電話が目に見えていたようである。

やがて、第二電電(DDI)は現在のKDDI(au)につながる。

ちなみに、KDDIの売上は5兆2千億円。

 

鹿児島一中の入学試験に2度落ち、大阪大学の入試に失敗し、

鹿児島大学工学部を優秀な成績で卒業しながら、これという就職先に恵まれなかった青年が

100年に一人現れるかどうかという偉業を成し遂げた。

 

もとはといえば、技術者であるが、というより類まれなる技術者でありながら、

経営者としても独自のフィロソフィを確立するとともに、

多くの社会貢献活動にも関わり、

たくさんの人から尊敬の念を持って迎えられ学ぶ人が後を絶たない。

 

時代の先駆者たるベンチャー起業家が成功して、その富を社会に還元してゆく。
これぞ、人間として素晴らしい生き方と思えてまいります。