稲盛和夫さんは昭和30年に鹿児島大学工学部を優秀な成績で卒業された。
しかし、不況も手伝って、稲盛さんに門戸を開放する会社はない。
京都の光風工業という会社に勤めらることになるがいつ倒産してもおかしくない赤字企業。
稲盛さんもいっとき辞めて自衛隊に入る決心をされる。
ところが兄の反対で思いとどまることになる。
ファインセラミックという新しい分野に一心不乱で研究に没頭した稲盛さんは、
日本で初めてという真空管に使う絶縁体の開発に成功され、
松下電子工業に製品を納入される。
ところが新しく来られた部長とそりが合わず退社をされることになる。
ところが、稲盛さんの技術に注目した人たちが会社を作ってくださることになる。
昭和34年のことで、まだ大学を出て3年ほどしかたたない人が取締役技術部長となる。
京都セラミック(後の京セラ)は稲盛さんの技術を世に問ういわばベンチャー企業であった。
それが今や売上1兆6千億の会社になっている。
電電公社が独占していた電話事業への参入を企図されたのが昭和57年頃。
巨大な電電公社に立ち向かう京セラに果たして勝算はあったのか。
動機善なりや私心なかりしかと自らに問い続け参入を決意される。
昭和60年、稲盛さんは携帯電話への参入を企図される。
この時、周りの者、ほぼみんなが反対されたそうである。
それほど、移動電話というのはちっぽけな存在であった。
ところが、稲盛さんには、将来のポケットサイズの携帯電話が目に見えていたようである。
やがて、第二電電(DDI)は現在のKDDI(au)につながる。
ちなみに、KDDIの売上は5兆2千億円。
鹿児島一中の入学試験に2度落ち、大阪大学の入試に失敗し、
鹿児島大学工学部を優秀な成績で卒業しながら、これという就職先に恵まれなかった青年が
100年に一人現れるかどうかという偉業を成し遂げた。
もとはといえば、技術者であるが、というより類まれなる技術者でありながら、
経営者としても独自のフィロソフィを確立するとともに、
多くの社会貢献活動にも関わり、
たくさんの人から尊敬の念を持って迎えられ学ぶ人が後を絶たない。
時代の先駆者たるベンチャー起業家が成功して、その富を社会に還元してゆく。
これぞ、人間として素晴らしい生き方と思えてまいります。