私の国の政府は、海外の被災地を助けることは積極的だけど、

海外から差し伸べられる助けの手は拒絶してきた。

 

たとえば飛行機の墜落現場近くをアメリカの軍用機が飛んでました。

「救助します」と基地に連絡すると、

「日本政府が断わった。そのまま基地に戻れ」と指令を受けた。

生き残ってた乗客たちは救助を受けられないまま死んでった。

なぜ救助が遅れたか・・「墜落現場がわからなかった」そうです。

おかしな話ね・・アメリカ基地は知っていた。

地元住民の目撃もあり、通報がず~っと続けられてたよ。

生き残りたった二名のうち、

お一人が何年もの調査を続けて一冊の本にした。

そのくらい、おかしいという思いがあり、使命感を感じてた。

 

神戸の震災でも東日本の大震災でも、

被災された人々は「おかしい」という気持ちをかかえておられるのでは?

気づいたことがたくさんあったでしょうし、指摘もたくさんあった。

そして今回ですね。

台湾から救助の声をかけていただきましたが、

これもお断りになった・・住民ががれきの下に、まだいるのにね。

時間との勝負なのに。

そんなことくらい一般人の誰にだってわかるよね。

 

私は、だから自分が何らかのトラブルに巻き込まれたさいには、

自分の体が動く限り自分で何とかしようと思って、

ふだんからいろいろ考えるし、

自分の体が動かないのなら、

あまり期待しないようにって自分に言い聞かせてる。

こんな国の国民なら、だいたいそうじゃないの?

 

山歩きって、体だけじゃなくて心のトレーニングになった。

山歩きで道迷い・遭難した場合のこと、

多くのじっさいのケース調べてきたし、

プロの方々の具体的なアドバイスや、体験本も読んできた。

私の同級生がとても有名な登山家だったし、

若くして単独で遭難死したので人並み以上に気になるんです。

山歩きで死ぬ場合は、世間の同情の余地は全くない。

「勝手に危ないところに行ったんやろ?

めいわくこの上ないね」って扱いです。

30年もずっと自分はそんな声を聞きながら山を歩いてきたから、

災害に巻き込まれるにせよ、あまり期待しないようになっている。

 

山歩きのプロが、言ってたんです。

「遭難とは、他人に助けてもらうほかない状況のこと。

自分の力でクリアーできない状況のことを遭難という。

よって、他人に自分を見つけてもらうこと、

それが命を救われる絶対条件。

登山届けを出していない、

家族や友人にも行き先を告げていないという時点で、

ほぼ終わった話なのです」

 

自分ががれきの下にいて身動きできない。

自分がどこにいるか誰にもわからない。

そんな状況で何が期待できる?

人命救助のテクノロジーが発達してないとは常日頃、感じます。

私の住むところが事故の多い場所で、たくさん目撃してきました。

火事も目撃しました。

びっくりするほど「ローテク」ですよ・・

いや~消防士さんたち、よく体を張ってやられてるな~って思うけど、

人命救助は、もっとやり方あるのでは? と感じます。

そういう指摘や声も一般人から多数あがってるんじゃないの?

しかし政府の方々は言うのです。

 

「だからチップを体に埋めましょう!」

「だから緊急事態条項で法的整備しましょう!」

 

のれない話です・・

今の法律でも、できることです。

ほかにも選択肢あるんです。

それをこの二つに誘導したがってるでしょう?

どうもそのあたり「事故はヤラセ」との陰謀論が現実味を帯びてくる。

「だから注射も打ちましょう!」とかも同じくです。

言われたことに従うことしか自分たち要求されてないでしょう?

要求のんだら、どんな社会になる?

人命を尊重する社会になる?

むむむ・・そっちの話のほうがよほど現実味に欠けると感じるけど、

それって私だけかなあ?