天気のおだやかな午前中は猫を車に乗せて墓地まで連れて行く。

犬の散歩が少なくて、人もあまり来ないところを選んで歩かせる。

室内で育った猫といえども、さまざまな変化が観察される。

一言でいうと、生きものらしさが増してきた。

以前は生き物というより置物のようでした・・

外に出たいという意思を示すようになったのは驚きです。

 

彼が外で何をしたがっているのか、ずっと観察を続けてきた。

猫がやることなんて、人間の私には何の意味もないように見えるけど、

なるほどね・・コイツは私といるよりも猫と一緒にいたがっている。

いつも探してる・・ほかの猫との交流を求め続けてる・・

しかし人間の私といっしょに歩いていたら野良猫たちは警戒してしまう。

彼には気の毒なことだけど・・

彼の欲求は生き物としてまっとうなことですが、

私は彼の首輪をはずすこともしないし、

首輪にゆわえた長い長いヒモの先を握った手をゆるめることもない。

それで・・彼は自分の好きなときに好きな場所へ移動することはできない。

私の気持ちは揺れています。

もうずっと揺れ続けているので揺れることには慣れている。

首輪をはずしてあげたなら彼は好きに生きて好きに死ねる。

彼がどう生きようと、いつ、どのように死のうと、

それは人間の私には何の責任もない。

彼の生死をコントロールしようだなんて筋違いだと今の私は考えている。

 

私の住むこの社会では、猫を自由にさせる人間は犯罪者です。

全国民から、無責任で残酷で愚かで恥ずかしい人間として、責められます。

この国ではいつの間にか犬も猫も自由に外を歩くことができなくなったし、

生きるためには人間の所有物として登録され、管理され、

時には法に従って殺されることも正しくて、

時には法に従って子を産み増やすことも正しい。

動物といえども生きるも死ぬも人間の法秩序に従い続けなければならない。

人間だって、そうやって生きているのだから、当然でしょう。

 

「飼い殺し」という言葉が私の頭を何度もよぎりますが、

この気の毒な動物に首輪をつけて、ヒモつきで、

墓地の中をいっしょにさまよい歩きます。

昔は日本もこうじゃなかったのよ・・

私が子供のころは猫も、犬でさえも、あるていどの自由を認められていた。

ヒモつきの猫だなんて・・クレイジーだ残酷だとあきれられたでしょう。

そのころの人間が、動物たちの多少の自由のせいで不幸だったのか・・

今の自分たちは、ここまで動物の管理を徹底することにより、

より高度な幸せを手にしたのか・・私にはまったくわからない。

 

彼は死ぬまで自身の目的を一つも達成することはないでしょうが、

私は飼い主としての責任を全うし、

彼の健康面の管理において目的をほぼ達成しております。