本日は、福岡県北九州市門司区の猿喰(さるはみ)城です。門司の大里から企救半島の山稜を越え、周防灘側へ抜ける鹿喰(かじき)峠と七ツ石峠の間に聳える城山(標高208m)山頂に位置する。城山山頂には、現在テレビ局のアンテナなどがあるが、その付近が主郭である。主郭は、東側に向けて緩やかな傾斜を持つ平坦面で、東西約50m、南北約20mの長楕円形を呈する。主郭の周囲には、帯曲輪が巡り、東側と西側の尾根続きには、階段状に小曲輪が展開する。そして、東側の曲輪群の先には、幅6~7m、深さ約4mにも達する堀切を1本設け、城域を画している。
↑猿喰城山(標高208m)
『福岡県の城』より借用
↑県教育委員会資料「8」猿喰城。
↑ここから右方向に入り込みます。
↑登山道。
↑登山道。
↑登山道。大きく右に曲がっていきます。
↑頂上の主郭にある立派な城址碑。
↑主郭にはテレビ局のアンテナがあります。
↑縄張り図写真の右端にある鉄塔。
↑鉄塔付近から見える景色。
↑頂部付近の斜面。
↑堀切を斜め上部付近から望む。
↑堀切を真横から撮影。
↑右側は現在の登山道です。
左側は階段状の小曲輪群へ続きます。
↑階段状の小曲輪群から頂部方面を望む。
↑昔は猿が多かったのでしょうね。
↑西側の小曲輪から頂部を望む。
↑西側の小曲輪。
↑西側の小曲輪。
↑西側の小曲輪。右側は主郭。
↑北側の帯曲輪。
↑北側の帯曲輪。
↑南側の帯曲輪。
↑もう降り出しそうです。下山します。
↑道路を挟んで左側が城山。右側が墓地。
↑正平18年12月13日落城・・・。
≪猿喰城≫
この城は、文治2(1186年)年、門司親房が門司城を本拠とし企救半島に君臨した時、出城として築き、一族をもって守らせていた。南北朝の動乱期に、結束の固かった門司一族も南朝、北朝の二派に分裂し、本城門司城と寒竹城は北朝方、猿喰城や柳城などは南朝方に味方し一族争うことになった。正平18年12月13日、猿喰城は本城軍の攻撃を受け、城主門司親頼以下一族郎党73名、城を枕にことごとく討死、落城したという。『福岡県の城』より