私は働くことが好きだ。だが世の中にはそうでない人も多く存在し、働かないことを否定だけしていても何も始まらない。そもそも「働く」というものには2種類存在すると考えている。一つはいわゆる「労働」で、給与という形でお金を手に入れることを第一に考えた働かされるもののことと、もう一つは、お金は二の次でとにかく何かを成し遂げたいと考える自発的で衝動的な「使命」があると思う。この二つの形を混同して、ただただ働くことへの推奨をしているだけでは現代の人間特に先進国の人間はそう簡単に働こうとはしないのではないだろうか。これだけ社会が豊かになり、親や国や社会が本人の生活を社会保障やセーフティーネットで支えている以上、働くことへのインセンティブを見出すことは困難に近いのではなかろうか。正直働きたくない人はもうすでに働かなくてよい社会になってしまっているように思える。そうすることにより、働きたくても働けない人たちへの就労機会が増加するとともに、無駄な就職活動も激減するのではなかろうか。よく国家の運営を会社の経営に例えることがあるが、会社経営とは決定的に異なる国家の形がある。国家というのは会社と違い、働く意欲のない人たちをクビにすることが出来ないばかりか、従業員の労働をしていない家族までも抱えてゆかなければならなく、企業の退職者年金より規模の大きい国民年金で国民の生活を支える責務がある。これが膨大な財政を圧迫する原因の社会保障費となる。それらの個別の社会保障も今や生活保護の支給額が最低賃金より高くなるというおかしな逆転現象も見られ、中途半端に働くより生活保護申請をすることの方が賢い生き方の様に囁かれることとなっている。こうなると何のための社会保障なのだろうかという、本来の目的まで見失っているようである。国も会社も経済的に豊かになると、手厚い待遇を施すことになるが、栄枯盛衰必ずしも右肩上がりを続けられるものでもない。最近、小泉進次郎氏を主人公とした政治コミック「もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら 」という書籍が発売され、にわかにミルトン・フリードマンの著書「資本主義と自由」の「負の所得税」の話が取り上げられることが多くなったが、果たしてベーシックインカムと比べるとどうなのだろうかと。「負の所得税」の仕組みは省略させていただくが、ベーシックインカムにない働くことへのインセンティブが盛り込まれたものである。人は果たしてこれから先、労働というものに意義や意欲を見出してゆくことになるのだろうか。働かずして暮してゆけることが可能であれば働きたくないというのは、これはこれで人間の本能に近いものなので、コントロールできないのではなかろうかと思ってしまうのである。逆に働くこと、何か事を成し遂げたいという使命を感じる人も本能なのではなかろうかと。となるとこれから先の世の中は自然と究極の格差社会を人々が本能的に求め、働くことへの使命を感じてゆく人々が、そうでない人々を下支えし、養ってゆくようになることがこの先の資本主義社会の自然な成り行きなのではないだろうかと考えてしまうのである。それでも私は働き続けて事を成し遂げていきたいと日々楽しんで生きているだろう。
最強の経済学者ミルトン・フリードマン
posted with amazlet at 11.12.06
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