一流のファッションモデルは、服を見たら服がこう着て欲しいと教えてくれるらしい。


一流の料理人は、素材がこう料理して欲しいと教えてくれるらしいし、仏師は自分がどう仏像を彫りたいかではなくて、来る日も来る日も木を眺め、そこにある仏の姿が見えたら、後は取り出すだけ、というし。


積み重ねた技術は必要だけど、

そこに「自分」が介入する余地はないらしい。


そんな神がかった気持ちになったことは残念ながらないけれど、それって会社で仕事をしていて、基礎的な知識と技能は勿論あった上で、自分のやり方を通さずルール通りやりなさい。というのとは、当然だけど全然違う話なのだろう。



なんとなく習い始めた茶道が20年以上続き、最終的に教える側になった作者が、お茶について書いたエッセイ「日日是好日」。





映画にもなりましたね。

お茶の先生を樹木希林さんが演じてらして、遺作の映画になりました。



冒頭。

降り出した雨を見て、自分がなくなった感覚におちいり、雨の一粒一粒が自分で、雨に打たれる草木が自分で、草にとまるカエルが自分で…。自分はいなくなり、代わりに世界の全てが自分になったように感じる、


「それが、つまりお茶なのよ」

と言う作者に

「えっ!?お茶ってそういうものなの!?」

と友達が驚き、それがキッカケでお茶について自分の思うところを伝えたいと本書を書きましたと作者は述べるけれど、そりゃお友達もなんのこっちゃとびっくりするだろうなと思う。


でも読んでみると言ってることがわかる。


お茶は決まり事が多い。

なんでこうするの?なんでこうしないの?

いちいち聞く生徒(作者)に、先生は、

「とにかくお茶ってそういうものなんだから、言う通りやれ」と言う(もっと上品な言い方で)。


現代っ子(?)で理屈っぽくてせっかちな私は

作者の気持ちがよく分かる。

こうした方が綺麗に拭けるんじゃないの?こうした方が早いんじゃないの?

なんでこんなことにこんな決まりがあるの?なんか意味ある?

そして先生はハッキリした答えをくれない。

なんなのよ、勿体ぶっちゃって。と思う。


でも、お茶に行くと気持ちがシャキッとするから、となんとなく何年も通っているうち、ある日突然、

「一滴一滴注いできた水がコップに満杯になったように」

「点と点がつながって線になったように」

わかるらしい。なんでこんな風に道具を持つのか、使うのか?なんでこんな決まりがあるのか。お湯の音と水の音が違うこと。


そうやって作者が何年も何年もかけて、頭で理解したことではなくて五感で感じて腑に落ちたことを丁寧に書いてくれているので、理屈っぽい私も腑に落ちた、ような気にだけはなることが出来た。


自分らしくあることはとっても大切なことだけど、世界の本当の奥深さを感じようとしたら時には自分を捨てないといけない。あるいは自分のこだわりを。


と、いうようなことでしょうか。

ここ、まだまだ腑に落ちていないですが。



話は変わるけど、友達で、お茶の教室で一緒だった男性と電撃婚した子がいる。10年近く経った今も上手くやっている。


自分よりずっと収入が少ない、結構歳下の、付き合ってもいない男性に突然逆プロポーズしたという彼女は

「お手前を見たら人がわかるから」

と言っていた。


その時は、すごいなこの子、大丈夫かな?と思っていたけれど、彼女は私よりずーっとモノが見えていたんだな、と今更ながら思った。






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