前回随分殊勝なこと書いたので、流れでこれも記録しておこう。
その、歳を重ねて行くうちに、自分の人生に最も必要なことは信仰だな、と思うに至りました。
はっきり自覚しだしたのは40代、不惑の頃です(不惑の頃が1番行く末の迷いが多くないですか?)。
正確にはもっと幼い頃、幼児期の頃から神様を探していました。
自分でも驚くべきことですが、幼い頃に「私は神様以外とは結婚できない(したくない)から大きくなっても結婚しないと思う」と宣ってたのです(両親はじめ周囲にクリスチャンはいません)。
前世シスターかなんかですかね![]()
※もちろん私が今の生活スタイルを選んでいるのは、幼少期のこの信念に基づいてではありません。いや、まぁ多少はあるか…
神社仏閣が大好きで、観光の際は必ず訪れるとも書きましたが、それはあくまで観光の一環でしたし、仏教を信仰するにはなにか怖い感じがする(上手く言えません)、キリスト教は体感的に冷たい感じがする(あくまで私の感覚です)、そして一神教が馴染まない。
新興宗教は現人神を祀るところが多く、その構造がとても俗世めいて感じられてはなから対象外(
私にとってはという意味で信仰なさっている方を否定はしません)。
では神道はどうかといえば、経典もない、一般人には戒律もない、ある意味最も厳しい宗教かもしれないけど、祀られている神さんを信仰することになるなら、どのように信じればいいのか分からない。だいたい古事記に登場する神さんの名前が御祭神となってるけど『○○乃命?それが?』
という具合でした。
小さい頃から感じていたのは、万物全てがエネルギー体?精神、のようなものを持っている、というものだったので「アニミズム」という感覚に近いのかなぁ。
こういう具合だったから、私が中学生の頃から台頭してきたファンタジー小説にもハマりましたし、オーラの泉を経て到来したスピリチュアルブームにも乗りました。
その流れで大本教系の教えを信奉する小団体に行き着き一時期傾倒していたこともあります。
当初は私が探していたものに今までで1番近いなぁ、と思っていたけれど、時を経るにつれ齟齬を感じだしてここからも離れていきました。
今はこれまでの体験の中で一番近しかった神道。一般的な神棚を設置し、北海道の中では1番好きな神社の御札と関連のある崇敬神社の御札を祀り、一日一度その前で手を合わせる、というところに落ち着いています。
どこの氏子にもなっていませんし、端から見たらゆるっゆるですが、これが私の信仰です。
大本教を経由したからか分かりませんが、もはや私の中で御祭神の名前関係ないです(!)。
あなたも、あなたも、あなたも、私が小さい頃に感じてたあのエネルギーの方たちですよね?って感じで受け止めてます。
神さんも自然の一部、人間も自然の一部、だと思っているので、なんて言うんだろう...神さんが人間だけを特別に守ってくれるとも思っておらず、何かを期待することもありません(でも今は願うものがないだけで、状況が変われば縋り付くかもしれません)。
じゃあ何のために神棚を設置して毎朝お参りしているんだろう?
多分、神棚や神社は「人間ではない、姿の見えない存在が在る」ということを信じる為のカタチで、祈りはその存在と関わりを持っていられる心の安心感なんじゃないかな、と思っています。
当たり前ですけど、どんなに仲のいいパートナー、家族がいても人は孤独です。自分の身に起きた事は全て自分で引き受けるしかない。そしてお互い変わる生き物です。
(それが悪いとはもちろん思っていません。それぞれの成長や学びの形だと思ってます)
でも神さんは存在し、神さんはずっと変わらず自分達の近くにいる。
目に見えないものの実在と不変を信じ、祈りの言葉を紡ぐ人は孤独の質が変わるんじゃないかな、と思ってます。
人間ではないからこそ信じられる不変の存在です。
私の生活環境がよりその思いを強めたのかもしれないけど。
でも、朝神棚に向かって「おはようございます!今日は~」なんて言うの楽しいですよ。
友人にも言えない「こんなことがあってー。こう思いましたー」なんて事も話しちゃいます(笑)










