第二章 ①


「圭佑、ご飯、どうするの?」

 ふすまを開けて、首を突き出した瞳美が言った。

 瞳美は同じ養護施設で育った仲であり、圭佑

より五つ年上の三十三である。

 以前勤めていたスーパーの先輩にみそめられ

ていだが、二年前に交通事故であっけなく亡くな

り、子供もいなかったため、養護施設の管理補助

として施設に戻ってきていた。


 切れ長の眼に色気があり、ポニーテールに細面

の整った顔をしている。やや褐色気味だが、皺の

ないサラッとしたきめの細かい肌と、出るとこは出

ているがどちらかというと細身の身体に、フィットし

た洋服ばかりを着ているせいか、まだ二十台に見

られる。


 「食べないんなら冷蔵庫にしまっちゃうよ。いったいいつまで寝てんの。もう怪我は治ってんでしょ」

 
 「わかったよ。いま起きるって」

 
 圭佑は怒鳴って起き上がると、癖になったように

右脚の脛をさすった。


 脚には、瞳美が手当てしてくれたシップをあてて

いるが、痛みはほとんどない。

 脚をさすると、伊レストランの娘である香織という

あの女のことが思い出された。それも女の生真面

目な表情と一緒に、あの日のことが幾らか滑稽味を

帯びた記憶となって、圭佑を思春期だった頃の

気持ちに戻すのである。


 十日前のあの日、香織は店に圭佑を担ぎこむと、

店長に救急箱を持ってこさせ、甲斐甲斐しく傷の

手当をしてくれたのである。

 店長も他の店員も、怒りや恐怖や信じられない

といった感じの眼をしたが、香織に気づかれない

ように、圭佑が凄い眼でにらんだため、店長ほか

皆は不服そうに口をつぐんだまま香織を手伝い、

彼女の指示でタクシーまで呼んでいたのだった。


 タクシーに乗り込んで圭佑は困惑した。

 どこまで? 

 転げ込むところは育った施設しかなかった。

 
 香織への関心は、いつもその記憶だけで終わる。

 その先はなかった。いっとき満開の梅の花の下

を潜り抜けたような、ほんの少しの華やかな記憶

が残っただけである。


 とりあえず施設に来たものの、圭佑にとって、

ここは居心地のいい場所ではない。


 管理人の松田老夫妻との折り合いが良くなか

った。特に女の方とは悪かった。その和子は、顔

を合わせるたびに、犯罪者にでも出会ったように

顔色を変えるし、男の忠行の方も近頃は口をきく

こともない。もっともこの一年近くは寄らなかった

のだが。


 圭佑はこの施設で育った。育てられた恩義より

も、ここでは和子に虐められた記憶のほうが強い

のである。


 三つのときに身寄りのなかった両親に死なれて、

この施設に入れられた。

 最初の頃は忠幸も和子も含め、周りに居る大人

や年長の子供たちは圭佑を憐み、かわいがって

いたが、そういう子はほかにも居り、いつのまにか

不憫な子という肌着はむしりとられていた。


 実親の記憶や想いを消すことが出来ず、それと

目の前の現実との大きな差を生めるためには、

ただ泣き続けるしかなかったのである。

 そのことが他の子よりも強かったらしく、管理人

夫妻、特に和子の、してあげているのに、という

気持ちを逆なでていたのだった。

 もっともそれはかなり大きくなってから気づいた

ことである。


 圭佑には、忘れられない、ひとつの記憶がある。


 管理人夫妻は、施設運営のほかに喫茶店を営

んでいた。その店の中での二人の力関係は、

施設内と同じであった。客あしらいはうまいものの、

気が強く、思ったことは何でも口にしてしまう和子

の影で、人の良いだけの忠幸は黙って、客のため

にカクテルやコーヒーを入れる係に過ぎなかった。

 売上の勘定や、常連客の対応は全て和子の方

が行い、忠幸は閉店後そそくさと先に施設へと戻

るのが常であった。


 接客という商売柄、また酒好きという体質上、

なじみの客に酒を勧められるとニコニコとお受け

する和子の帰りは遅くなり、毎晩のように酔って

帰った。そして一時間も経たないうちに、

寝ている子供たちのことも構わずの夫婦喧嘩が

始まり、そうなると決まって、泣いてばかりいる

圭佑を厄介者、とののしった。


 その夜圭佑は、眠っているところを忠幸に叩き

起こされ、パジャマ姿のまま外に連れ出された。

 ひとつ布団に寝ていた瞳美が泣き出して、

子供とは思えない力で圭佑にしがみついたが、

忠幸は気が立っているらしく、

瞳美を突き飛ばした。


 「そんなに目障りなら捨ててくるぞ!」


 丸顔で小太りの忠幸は、血相を変えていた。

 
 「こいつが凍え死んだら、お前のせいだぞ、わかってんな!」

 
 「ああ、捨ててきな。川ん中にでも捨ててきな」

 
 和子は店から戻ったばかりらしく、派手な服を

着て、ストーブの前で煙草を吸っていた。

 化粧の濃い大きな顔に、冷ややかな眼だけ光ら

せて煙を吐き出すと、ルージュを塗った口を歪め

て言った。


 「厄介者がいなくなったら、清々するよ。なんならあんたも帰ってこなくていいよ。ここも店もあたし独りでできるからさ」


 忠幸は凄い音を立てて玄関ドアを閉め、圭佑の

手をつかんで勢いよく外に出たが、町を抜けて

小学校の塀に突き当たり、室見川の川辺に出る

頃には、足取りはすっかり勢いを失っていた。

 ただ、後ろから瞳美が追いかけてきた。

 けいちゃんを捨てないで、と言って泣きながら、

 赤い半天にパジャマ姿の瞳美が黒髪をなびか

せて走ってくる。

 けいちゃん、けいちゃん、と涙でくしゃくしゃに

なった紅い顔を圭佑の頬にすり寄せた。


 「二人とも、寒いだろ」


 忠幸は着ていた半天を脱いで、圭佑と瞳美に

かけてやると、大きな音をたてて洟をすすった。

 もともとが蓄膿気味で年中洟をすすっているの

だが、春の気配が感じられる頃になると余計に

音がひどくなり、あんまり大きな濁った音を立て

るため、トイレでやってくれ、と和子はいつも憎し

げに言うのである。


 圭佑は眠気が覚めた頭でそんなことを考えなが

ら、襲ってくる雪風と寒さに歯を鳴らし、子犬の

ように瞳美に身体をすりつけた。


 「やっぱり帰ろうか。瞳美、圭佑。な、その方がいいな」


 身体を丸めた忠幸は弱弱しい声で言うと、

もう一度、洟をすすり上げた。


 小雪が舞う夜中の暗い川辺に、和子が憎む、

洟をすすり上げる音がひびき、瞳美の胸元から

見上げた真ん丸の月が、黒い闇の出口のように

銀色に光を放っていた。

 その夜の景色を、圭佑は長い間忘れることが

できなかった。


 圭佑は中学に入ったときには既に界隈でしら

れる存在になっていた。

 眼を尖らせ、絶えず生傷だらけで、近づいてくる

もの全てに牙をむく、そんな野良犬のように育ち

あがっていた。


 ただ、ひとりだけ心を許していた瞳美がいる内は、

人の道をぎりぎり踏み外すことはなかった。

 その瞳美が結婚して施設から足が遠のくように

なると、不意にこの施設の六畳間に住んでいる

理由が何もないことに気づいた。

 和子はことごとく他の施設生と圭佑の扱いを

区別し、他の同級の高校に進学した施設生たちも、

圭佑には脅えて近づかなく、忠幸は相も変わらず

年中和子に小言ばかり言われる立場であった。


 大工仕事の見習いという職も途中で捨て、

酒やパチンコを覚え、いかがわしげなバーへ

出入りし、うわっつらだけの仲間のチンピラ間を

泊まり歩いて、めったに施設には帰ることが

なくなっていた。


 たまに帰ると、和子は言ってた通りだと忠幸を

ののしり、圭佑を邪険にあつかったが、あるとき

圭佑がつきあいのあるチンピラたちと揉め事を

起こし、施設内まで乗り込まれての暴力事件に

発展したときには、全く誰も圭佑に対しては口を

閉ざしてしまっていた。


 いま、施設の中には出戻りの瞳美のほかには

未就労の中高生八人と小学生以下の子供たちが

一七人いる。みな、血の縁には薄い子たちばかり

なのだが、圭佑を除いては家族のように寄り添っ

ていた。


 泊まる場所にどうしようもなくなったときだけ、

圭佑は今も忠幸の居る施設に帰ってくる。

 だが、いまでは和子や施設生だけではなく、

忠幸も、すさみきって触れればスパッと切れる

薄いカミソリのような空気をまとって現れる圭佑を、

恐れているようであった。


 

「いつまでそんな暮らしをするつもり?」


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(続く)

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