次の第六章(最終章)に、ポーカー勝負、

信夫の怒り爆発。


 そのきっかけとなる悲しい出来事がこの第五章②に。

 いったい何が・・・?





第五章 ②



 「駄目とは言ってねえよ」

 
 篠田は、ちらと上目づかいに信夫をみた。

 
 「だが、戻るとなると、一からやり直しだからな」

 
 「しかし、前には三年お世話になっています」

 
 「そいつは違うな。信。どんな世界だってな、お客さん相手の職人の世界は、一日ずつ変化してってんだよ。味もそうだし、飾り、作法、ネーミングとかな。いろんなものが変わっていってんだよ。気づく者は、気づくけどな」

 
 「それに、信。さっきからお前の顔を観ているとな、もう接客業の顔にみえないな」

 
 信夫は店内の若い男たちの顔をみた。真剣な

まなざしで清掃や、グラス磨きをやっている最中

でも、客に喜んでもらおうとする姿勢が感じられる。

何より、顔つきがいい。ちらっ、ちらっ、とこぼれる

笑みには魅かれるものがあった。

 
 「やっぱり駄目ですか」

 
 「それにな、信」

 
 篠田は、またちらと信夫をうかがう眼をした。

 その眼には怯えがある。


 「気を悪くしないでもらいたいんだが、お前がいま入っている店の評判を聞いているよ。酒だけの店じゃねえだろ。うちの連中は、お前ほどの腕にはなっていないが、素直で気のいい若い奴ばかりだ。正直、うまくいっている。お前が入って、プラスになると確信できないんだよ。それは、お前にとってもな」

 
 信夫は苦笑した。眼が覚めたような気持ちになった。

 
 「わかりました。別に、気を悪くなんかしていません。逆に有難いです。正直に言ってくれて」

 
 「そうか、わかってくれるか。有難うな」

 
 篠田はほっとしたように、表情をゆるめた。

 そして、うつむいている信夫に言った。

 
 「中洲でいい店に入りたいんなら、他の店に口を利いてやってもいいぞ。もちろん、これまでのことは伏せてな」

 「いえ、そこまでしていただかなくても。大丈夫です」

 信夫はきっぱりと言った。


 事前に連絡するからと言って、ほんの一時間

程度でいいんで、特定の知人にここでカクテルを

自身の手で作って出させて欲しい、という頼みご

とだけを受けてもらい、信夫は篠田の店を出た。

 しばらく歩いて振り返ると、見慣れた看板を

下げた店々が見えた。

 六年前と変わっていないようだった。

 店の向かい側には年老いた婆さんのやっている

スナックやケーキ屋、ラーメン屋、花屋が並んで、

ケーキ屋に若い女たちが四、五人の塊でお喋り

しながら入っていくところだ。篠田の店の並びは、

古い卸の酒屋があり、いまも店先では配達用の

軽トラックに、生ビールの二十リッター缶や

瓶ビールの赤いケースが積み込まれていた。

 中洲三丁目の、見慣れた街通りが続いている。

 
 だが、この街はいま、信夫を拒絶したのだ。

 久しぶりに会った篠田が優しかったのは、突然

訪れてきた、ひとりの危険な男を恐れただけの

ことだったのである。

 さっきの篠田の最後の言葉が胸に残っていた。

 
―――これまでのことは伏せてな


 やはり、傍からみれば、自分は厄介な人間な

のだ。それを悟ることができず、戻してくれなどと

言ってしまったと思うと、信夫は情けなさと、恥ず

かしさで、辺りにある路地にでも身を隠したい気分

に襲われた。


 目の前の通りには、右、左に路地がいくつもある。

 古くて低いビルとビルの間。

 しかし、そこに陽の光が入ってくることはない。

 そんな薄暗い陰の世界に、いま自分は居るのだ

ということが、ようやくわかった。


 信夫は背を向けた。うしろの方で大勢の男女の

笑い声が聞こえてくる。信夫にはそれが、篠田の

店からの、自分を指差しながらの笑い声のように

聞こえた。





 藤崎町の自宅に戻ると、留美がシャワーから

出てきたところだった。


 「やっぱり、元気ないわね。信ちゃん」


 素足を出してバスタオルに身をつつんだ留美は、

髪をふきながら、信夫に言った。


 やっぱり? とは何だと、信夫は留美の言葉に

微かに怪訝さを感じた。

 「ね、する? してあげようか」


 「お前、それしかねえのか」


 信夫は、そっけなく言うと、敷きっぱなしの布団に

どさっと横になった。

 汗ばんだシャツが、背中にぴたりと貼りつくのも、

それほどには気にならなかった。


 「信ちゃん、やっぱりあの子に惚れているんでしょ」


 信夫は答えなかった。そうかもしれないし、

そうではない、という気持ちが正直なとこだが、

好意を抱いているにしても、留美に対する好意

と違うのはあきらかであり、有紀の身体に手を

出すことなどあり得ないと思っている。

 ただ、自分が有紀に魅かれているのは、とうの

昔に失ってしまった光みたいなものを、有紀から

感じていたからなのだ、とは思っていた。


 今にして思えば、有紀は信夫がもう戻ることは

できない世界から声をかけてきた、天使のような

人間に思える。そして、何を間違ったのか、闇の

住人とは言わないまでも、黒色を帯びている濃い

灰色の自分に、有紀は光をみせてくれたのだ、

と信夫は思った。

 自分の周りには闇の住人とまで言える人間は

いない。留美も、川浪も、日向も、目黒の爺さんも、

みな闇の人間ではない。ただ、光を放つ白さは

自分と同じように失っている。濃淡はあるものの、

みな灰色なのだ。


 そう思った信夫の眼に、涙が盛り上がってきた。

 タバコの煙が漂い、万札が飛び交う、薄暗い、

賭場に化けるバー、ではなく、普通に汗をかいて、

その汗でささやかながらも笑顔のこぼれる世界。

 そこに、有紀は居る。

 そして、その世界に戻ることがどんなに難しいか

は、さっきの篠田を思えばわかる。


 「じゃ、早いけど行っちゃおうかな。ね、うしろ、おかしくない?」


 「ああ、ちゃんとなっている。大丈夫だ」 


 信夫は、肩肘をついてもの憂く言った。


 そして、留美はヒールを履きながら言った。


 「本当に可愛そうだったね。あの子。よっぽどショックだったんだね。飛び降りて死んじゃうなんて。テレビのニュースで知ったよ。有紀ちゃんていうんでしょ、あの子」



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(続く)  次は第六章に入ります。最終章です。