信夫は、傷を負った有紀との約束を守るために、過去の世界に・・・。


第五章 ①



 額に深い横溝が刻まれているのは昔からの

もので、髪に白いものが目立つようになっただけ

のように見える。

 オーナー店長の篠田修平は、艶のいい顔色

をして、六年前信夫がこの店を飛び出したときと、

あまり変わっていなかった。


 慎重な手つきでシェーカーにリキュールを注いで

いる篠田のカウンター越しに、背筋を伸ばして座っ

ている信夫は懐かしそうに店内を見回した。


 カウンターの中も、そんなに変わったようには

見えなかった。

 店玄関を入って左の壁上にある、明り取りの窓

がすすけているのも、見習いのバーテンダーたち

がTシャツ姿で背筋を伸ばして、慎重かつ真剣に

カクテルグラスを磨いている光景も、六年前と似

ている。

 その変わらなさに、信夫はかえって驚いていた。

 カウンターの奥のエスプレッソマシーンがイタリ

ア製になっているのが、わずかな変化である。


 「達也はどうしました?」


 信夫は昔の仕事仲間の名前を持ち出した。

 いま、店内にいるのは、顔の知らない、

ずいぶん若い男ばかりである。


 「達也は、買い物に行っている」


 「良則は?」


 「ヨシは去年独立して、店をやっている」


 賢治は? と聞こうとして、信夫は口をつぐんだ。

 ここが、自分から捨てた仕事場であることを思い

出したのである。

 懐かしがるのは独りよがりというものだった。

 
 篠田が、コールドテーブルに置いてあるクロス

で、水洗いした手をぬぐってから向き直った。


 「さっきの話だがな、信。いま練習しながら考えた」


 信夫をみた篠田の顔には、温かいが当惑した

表情が浮かんでいる。


 「お前、本気でそう思っているのか」


 「マスターが承知してくれればの話ですよ」


 今日、信夫は六年ぶりで篠田を訪ねた。

 篠田に会って、温かい言葉をかけられている

うちに、信夫はここに来るまで言うつもりもなかっ

たことを口にしていた。

 遠回しな、遠慮した言い方でだが、出来たら

ここに戻りたい、と言ったのである。


 篠田に会う気になったのは、有紀とああいう

別れ方をしたためである。

 あの日から半月経ったが、一度も会いには行か

なかった。もちろん、向こうからの連絡など

なかった。

 有紀は、退院はしたものの、金屑川での練習は

やめているようだった。あるいは、あの堤防に出

ていても、信夫と顔が合わない時間帯を選んで

いるのかもしれなかった。

 あのときの有紀の怯えた顔を思い出すと、それ

は当然のことだという気がした。有紀はいま、何も

気づかずに、怖い男とじゃれあっていた、と身震い

しているかも知れなかった。

 カクテルのことも、狂犬のような男が、羊の毛皮

をかぶっていい加減なウソをついたと思っている

に違いなかった。


 だが不思議なことに、信夫には有紀をだました

という気持ちは少なかった。

 有紀と会っているとき、信夫は自分が、穴倉の

ような賭場から出てくる汚らわしい男ではなく、

ひとりのまっさらなバーテンダーであるような

気がしていたのである。

 カクテル作りの話をするのは楽しかったし、

オリジナルを作ってやると言ったのも、本気で

そうしたいと思ったのだった。

 少なくとも、朝の澄み切った陽の光の中で有紀

と話をしているとき、信夫は、自分をまっとうな

人間のように思い続けていた。


 信夫は、そのことを有紀にわかってもらいた

かった。ただの危険な男とみられて終いになるの

は辛い気持ちがした。だが、有紀にわかって

もらうためには、自分で作ったカクテルをこの店で

飲んでもらうしか方法が浮かばなかった。

 そうすれば、あの聡明な有紀が、自分がこの夏

会っていたのは、バーでカクテルを作るだけの

職人だったと信じてくれないはずはない。

 そして有紀が信じてくれたら、ひょっとしたら

そのまま純粋にカクテルを作って出すだけの

職人の世界に戻ることが出来るかもしれない

という、夢のようなことも考えるのであった。

 そうした気持ちの底には、オーナーの川浪に

言われたいかさまに対するこだわりがある。


 信夫はいま、日向哲志に、いかさまポーカーの

手ほどきを受けていた。

 日向のカード捌きは手品師というには失礼過ぎ、

職人芸ともいえるほどの見事さで、昔、目黒の

爺さんに習って覚えた自分のそれが、まるで

子供のトランプ遊びの程度にしか思えないほど

であった。

 それだけのカード捌きをしなければ、カードに

仕掛けを施すことができないということも理解

できた。


 列になったカードの動きは、日向の両掌の中で

龍のうねりの様にみえる。その動きを客に魅せて

いる最中、両掌の親指の爪がカードに鋭い線を

刻んでいく。その一枚のカードを眼をこらして

ようく見ても、ただの小さな引っかき傷にしか

見えない。

 しかし、その長さや数によってカードの内容を

教えてくれる印なのである。


 だが、信夫にはためらいがあった。

 日向のようになったらおしまいだという気が

するのである。日向本人を忌み嫌うのでは

なかった。

 日向に教えられて、龍の動きを自在に操り

ながら、その鱗の一枚に自分の印を刻むとき、

仕掛け使いの底知れない喜びのようなものが

見えてくる気がし、それが恐ろしかったのである。

 それはこれまで、事前にカードに施しをして、

それをシャッフルして、ただ配るだけの仕事とは

全く異なるものだった。


 しかし、そうはいっても、有紀に、自分が作った

オリジナルのカクテルを、賭場を開いている店で

飲ませてあげるということが、出来るわけは

なかった。せめて、留美が言うような、誰かが考案

した既製のレシピで作り上げたカクテルではなく、

自分が育ったまっとうな店で、信夫自身のレシピの

カクテルを飲ませてあげたい。そしてそのことを

正直に有紀に言うのだ。


 そう思いながら、今日篠田の店に来たので

あった。

 店に戻りたい、という言葉がついて出たのは、

篠田と話している間に、不意にそれがわけもない

ことに思われたからである。


 「駄目ですか、篠田さん」


                                            ペタしてね


(続く) そうして、またもや悲しいことが・・・