宮澤喜一(みやざわ・きいち、1919-2007)は、第78代内閣総理大臣である。戦後政治の根幹である55年体制の崩壊を招いた。

 

 

 

 

宮澤は、東京帝国大学(現・東京大学)法学部を卒業後、大蔵省に入省する。その後、秘書官として仕えた池田勇人(いけだ・はやと、1899-1965)に見出され、1953年の参院選に出馬し政界へと進む(後に衆院に転じる)。自民党池田派(宏池会)に入り、「保守本流」を歩む。

 

 

早くから持ち前の英語力や才覚を認められ、1962年に池田内閣で経済企画庁長官として初入閣すると、外務大臣や官房長官、大蔵大臣などを歴任する。党内では、竹下登(たけした・のぼる、1924-2000)や安倍晋太郎(あべ・しんたろう、1924-1991)と共に「ニューリーダー」と注目された。

 

 

宮澤は、竹下内閣でも大蔵大臣を務める。しかし、リクルート事件への関与が発覚し辞任した。そして1991年10月、自民党総裁選に出馬する。渡辺美智雄(わたなべ・みちお、1923-1995)、三塚博(みつづか・ひろし、1927-2004)と総裁の座を争った。3候補はそれぞれ党内最大派閥の竹下派(経世会)の支持を求める。竹下派会長代行の小沢一郎(おざわ・いちろう、1942- )との面談の結果、宮澤は竹下派の支持を取り付けた。こうして宮澤内閣は、竹下派の数の力を背景に成立する

 

 

宮澤内閣の目下の課題は、海部俊樹(かいふ・としき、1931- )内閣がやり残したPKO(国連平和維持活動)協力法案小選挙区の導入を柱とした政治改革法案であった。宮澤はまずPKO法案に取り組む。ハト派政治家として日本国憲法の基本理念をもとに同法案を成立させた。

 

 

1993年6月、宮澤は「やる」と宣言していた政治改革関連法案の先送りを決める。その決定に反発した野党から内閣不信任決議案が衆議院に提出された。自民党が過半数を占める中、否決されると考えられたが、自民党内から賛成や欠席する造反者が出たことによって可決された。宮澤は、解散総選挙を決断する。その経緯から俗に嘘つき解散と呼ばれる。

 

 

解散直後、自民党内から離党者が続出したため、自民党は過半数を割る結果となる。宮澤内閣は総辞職となった。宮澤の在任中には、天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)の訪中も実現させる。アジア地域との関係改善に尽力した。一方で、バブル崩壊後の内政面は手つかずに終わったのである。

 

 

退陣後も2度にわたって大蔵大臣を務める。省庁再編後は初代財務大臣として2000円札の発行にも携わった。党内の定年規定もあり、2003年の総選挙に出馬せず引退する。

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参考文献

学研編集部,2006.『実録首相列伝』学習研究社.

平野貞夫,2012.『消費税国会の攻防』千倉書房.

御厨貴,2011.『知と情 宮澤喜一と竹下登の政治観』朝日新聞出版.

 

 

 

 

文責:福田 脩(Twitter