しかし、自分を犠牲にしての愛は(仮に犠牲になるのが気持ちよい真性ドM以外は)
どこか苦しくて、真の意味での自分の魂が楽しめない選択をしながら他人に愛を与えると、
『愛を与えられた相手が素直に愛を受け取れなかったり』
『愛を与えられるのに、相手が罪悪感が湧いたり』
ってせっかくの愛に対して抵抗が出てきます。
そして、その与えられる愛の歪みが長期に渡ると
『当たり前に自分が愛される存在である』
という意識が薄れていくわけです。
恋人関係、夫婦関係、親子関係。。
当たり前の愛の信頼関係が作られず
歪みが出てくるんですよね。
また愛を与える方も
『ここまでしなきゃ私は愛されない』
って恐れから基づいた愛だから、
愛を与えられた方も重いんですよね(;^_^A
次回は、多分身体と病気についてのことを書くかな??
愛についての考察は
まだまだ続きます
