二代目社長の日々をせきららに

二代目社長の日々をせきららに

相続前で、家業を継ぐまでの苦労や私の思考回路をせきららにつづりたいと思います。

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そんな訳で私は全く自分のキャラに合わない高校へ進学することになりました。


本当にこの学校はすごかった。


入試の日はから、すでにサプライズで


何に驚いたかっていうと、テストの内容に驚きました。

 

まず数学に関しては、問題が二桁の足し算・引き算から始まるのです。


後半になると中学生らしく二次関数とか三平方の定理なんかを使う


問題が出てくるのですが、全体的にちょー簡単。


国語や社会のなどは、選択問題の記号をつなげていくとフレーズに


なるように作ってあるんです。


「はるださくらだおはなみたのしい」だったかな?


わからないところがあっても、わかっちゃいます。

 

学力にはとても問題のある学校でした(;´Д`)


自分も中学ほとんど行っていないので、正直英語や数学はかなり


遅れていたのですが、中間・期末は一時間勉強すれば95点以上は


イケちゃいます。

 

同期にはヤンキーがメチャメチャ多かったですね。


新入生の半分位ヤンキーなんですよ。


キレイな刺繍入りの制服着てる人とか多かったなぁ。


そして中退する人も多かった。


最初の一年で生徒数が半分になるんです。本当ですよ!


入学当初は、7つのクラスに分かれて、それぞれの教室は


生徒でパンパンになっていました。


体育のあとなどは、暑苦しいほどの熱気で、


しかも共学だったのですが、女の子がとりあえず少ないのです。


男臭いのです。男でヒシメキあっているのです!教室が!


しかし、なにしろ半分辞めていきますから、


2年生になるとクラスは5クラスになりました。


教室もスカスカで毎日快適でしたね。

 

この学校の生徒達はもちろん周囲のお店にも煙たがられていました。


学校が終わって近所の本屋さんなんかに立ち寄ると、


制服を見ただけで店員さんの態度が豹変するんです。


たぶん相当万引きの被害にあっていったと思われます。

 

そんな中、私はコツコツ大学進学に向けて勉強していました。


模試も受けていましたが、県内偏差値 50 校内偏差値 82


とか普通にありました。


すごいですよね 82 って! 


それだけ学校内の学力が低かったってことなんですけど…。

 

まーそんなこんなで、中学の遅れを取り戻すために必死こいて


勉強して東京の大学に進学を果たしました。

そんな様子でなかなか根暗な幼少期を送っていましたが、


中学校3年生の頃には、あまりに情けない自分のあり様と


刻一刻とやってくるモラトリアム期の終わりに追い詰められていました。


「本当に死んだほうがいいんじゃないか」と考えるところまで行きました。

 

でもそこまで行くと逆に人間って強くなるものですね。


ある時ついに追い詰められて極論に至りました。

 

「他人や環境をうだうだ言っても意味がない。自分の人生は他人に決められる


ものではない。大切なのは自分がどうあるか、何をするか」


そう考えるようになりました。

 


ここまで深刻な状況になってようやく私は自分の主体性に集中する


ことが出来るようになりました。

 

それからは、本当に心が軽くなりました。


例え世の中が醜くとも、自分はそのようにはならない。


例え世の中の流れが誤った思考に流れていても、私は私の道徳観と


倫理観を持って、自分自身の人生を決定し、他に影響を与えることが出来る。


そのような確信が湧いてきたのです。

 


そうやって、精神的には平常心を手に入れることができるようになりました。


心が平常心になると冷静な判断もできるようになりました。

 

「やっぱり高校・大学には行きたい!大学で心理学の勉強をしたい!」


そう思うようになりました。

 

でも残念ながら、私は中学時代に半分も学校に行っていなかった。


当然学校の成績表はほとんどオール1(なぜか体育だけは2)


出席日数は半分にも満たず、


悲しいことに、まともに行ける高校がほとんど無いのです。選べません。

 

でもここで学生をやめてしまうと次のステップに進めなくなります。


私が優一行けるのは、地域のヤンチャな子達が大量に集まる私立の高校


「魁!男塾」ばりの学校でした。


親に高いお金払ってもらって通いました。

前回からの続き

そのように私はちょっと変わった環境の中ですくすくと育ちました。


でも幼少期はあまり健全な精神状態ではありませんでした。


周囲の環境が精神状態に絶対的な影響を与えるとは思っていませんが


あえて書いていこうと思います。

 

まず私が精神的に苦しかったのは、他人からの妬みですね。



会社はちょうどその頃、急成長をしていました。


小さな町ではありますが、我社の商品は町に溢れ、その分野でのシェア


率は100%と言っていい程でした。


当社のマークを付けた車がバンバン表を走っています。


何も会社の中身を知らない人から見れば、随分と景気のいい会社にみえた


でしょうね。

 

でも企業家なら分かると思いますが、会社が成長するときというのは


お金もとてもたくさん必要になるのです。


銀行からたくさん融資をして頂き、その返済に追われながら日々を過ごす


それが実際の成長する企業の姿です。


湖面に漂う優雅な白鳥も、その水面下では必死に水を掻いているのですよね。


家庭内も贅沢ということは無くて、食べているものは普通の家庭と何ら変わり


ませんでした。


会社を経営していることを慢心して吹聴するような家庭でもありませんでした。

 


でも、やっぱり目立つのです。


小学校低学年の頃、友人にもよくからかわれたのを覚えています。


何よりも寂しい思いをしたのは、親友の母親から何度も強烈な妬み発言を頂いた


ことです。


こうやって私はやがて人との関わりを持つのが苦しいと感じられるようになり、


とうとう人と関わることに恐怖心を抱くようになりました。

 

こういうことは確かにあったのです。


しかしやっぱり最終的には自分の方に問題があるのです。


私の場合は、知らず知らずのうちに周囲の人間に100点を期待するようなマインド


になってしまっていたのです。


「他人がどうあるかよりも、自分がどうあるのか」ということに集中することを


忘れてしまっていたのですね。


これまた情けないことに外的要因を分析すると、自分の場合は大人と過ごす


時間が非常に長く、同世代の子達と5歳になるくらいまであまり遊ばなかったと


いうことにも原因があるのではないかと思います。

 


幼少期というのは、友達と遊び、ケンカし、仲直りし、お互いが未熟であることを


受け入れながら、自分のあり方を見つけて行く時期です。


幼少期にはやはりこういう時間を過ごさせてあげないといけない。


そう思います。


大人は子供に比べると正しいことをするに決まっています。


道徳的に落ち着いていますし、自分への抑制が聞きますし秩序があります。


でもそういった自分の目上の絶対者とばかりお付き合いするのは子供にとっては


いいことばかりではないのでしょう。


未熟なもの同士が集まり、未熟なルールを作り、日々の時間を過ごす中で


お互いに未熟であることを認め、許し合い、失敗をしながら育っていく、


これが本当の人の成長だと思います。

 

私の場合は、ある程度完成された大人と付き合う時間が長かったから、


他者の未熟さを許容するということがとても苦手だったのかもしれません。


そして、意識はしていなくても自分の苦しみの原因を他者に求めるような


人になってました。


ある意味とてもワガママだったのですね。

 

こんな未熟な精神状態な時期が長く続いていましたが、


この経験は後に塾経営をやっていく時には特に役に立ちました。

 

すべての子供たちは、未熟ですが感受性は一人前です。


彼らは大人の三倍は濃密な一日を過ごしています。


心もとても傷つきやすかったり、うまくやれない自分に劣等感を


抱いていたりするのですよね。

 

人がなぜ苦しみを感じるのか?私は心の専門家ではありませんので


その全てに答えることはできませんが、簡単なことはわかります。


ひとつには、他人も自分も許すことができなくなってしまうことが原因です。


他には、自分に出来ることに集中せずに、どうにもならない外部環境に


集中してしまうことも原因です。


このパターンにはまってしまう子供たちは非常に多いので、


自分の経験を活かすことができました。


次回に続きます。

母が会社経営をするようになった時、母27歳、私1歳6ヶ月でした。


1歳6ヶ月の私は、母が毎日どんな葛藤をしていたのか知る由もあり


ません。

 

ただ私の幼少期のちょっと変わっているところは、まず大人に接する


機会が以上に多かったということでしょうか。


その頃の母のライフスタイルは、


・朝4時半 起床


・6時半までに子供のお弁当を作り朝の食事の準備をする。


・6時40分出社して夕方4時まで仕事。


・4時から家族の夕飯の準備などを済ませる。


・夕方6時にもう一度会社に戻って仕事。


・帰宅するのは早くて10時位。

 

こんな感じだったと思います。


仕事が忙しくてもご飯だけは絶対に手料理を食べさせる。


それが母の信念でした。

 

そういう母のライフスタイルに合わせて、私は常に会社にいるのが


当たり前でした。


3歳か4歳になるまで寝床は会社の押し入れの中です。


外で仕事をしているおっちゃんにリフトに乗せてもらって遊び。


仕事がうまくいけば、会社のおっちゃん達が酒盛りをしていましたが


なぜか自分もいました。

 


母は人を大切にしました。


遅くまで残って仕事をしている人がいれば、おにぎりとお味噌汁を


作って深夜に持っていきました。


そういう気遣いがあってか、会社には本当に気持ちのいい人たちが


たくさん集まっていたと思います。

 

この頃の会社の成長がどのようになっていたのか、子供の私に


はわかりませんでした。


子供の私にもわかっていたことは、大人たちは一生懸命でキラキラと


輝き、そして一年一年そんな仲間たちがどんどん増えていったという


ことです。


我社は一生懸命頑張るなかでも、遊び心を忘れませんでした。


飲酒運転が今ほど厳しくなかった頃、夏になればバーベキューを皆で


やるのが恒例行事でした。


100名近い人が集まり、熱を帯びて仕事の話をし、昔の話しに笑います。

 


そんな環境のなかで私は育ち、いつしか自分も経営者を夢見ていました。


前向きで一生懸命な人たちが集まって、キラキラ輝いている。


そんなところに自分もいたい。


自分もそんな和を作れる人間になりたい。


これが自分の、仕事に対する原動力の源だと思います。

幼少期の自分について書いていこうと思います。

その前にキャラクターをわかってもらうのに、まずは環境から

書いていきます。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

私の家族構成はちょっと特殊です。

父親の違う姉と母親の違う兄が二人

そんな構成の中でそだちました。

 

こういうふうに書くと、ヤンチャなお父さんお母さんを想像され

るかもしれませんが、そうではないですよ(笑

両親は二人とも最初の伴侶と死別しちゃってるんですね。

 

それで父と母はそれぞれ連れ子をつれて再婚して、私が生まれた。

そういうわけです。つまり私が4人兄弟の末っ子ですね。

入り組んだ家族構成ですが、逆に家族仲は良いと思います。

兄を今でも尊敬していますし、姉とも仲良しです。

 

父は1975年(ぐらい…?)に会社を設立しました。

建設関連の会社です。もともとは大工さんだったのですが、

思い切って独立開業!を果たした訳ですね。


それから最初の妻を亡くし、私の母と再婚をし、

なんと1991年には今度は自分が命を落としてしまいました。

会社の経営から来る心労が原因だったと、母は語っています。

 

ちょうどこの時、会社は大きな借金を抱えていました。

なかなかベンチャーなお父様だったようで(自分は覚えない)

亡くなるちょっと前にかなり大きな投資をして、新事業にのり

出していたみたいです。


さてそうなると、大変なのは残された家族ですね。

最近はちょっと変わってきましたが、当時は銀行にお金を借りる

には担保をつけるのが当たり前です。

さらに企業の倒産する時には、経営者の保有する私財も借金の

補填に当てられるように契約しちゃってるんですね。


結婚仕立ての普通の女性であった母は、大きな決意を迫られました。

倒産し4人の子供と路頭に迷うか、

それとも会社経営なんて生まれてこの方考えたこともない人が

ひとつの会社の切り盛りをやるのかという決断です。


そして母は、子供たちのこと、自分の人生のこと、いろいろと

考えたなかで会社を潰すことはできないと考えました。

兄に代を委ねるまで、自分が経営者となって会社を守って行く、

そう決意を固めたのです。


その決意は、私たちが育っていく環境にも大きな変化を与えました。

続きは次で書きます。