プロ野球80年史 vol.53【1995年】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。

・セ・リーグ
新たな戦力を加えたヤクルトが2年ぶりV!


阪神・ヤクルトで123本のアーチをかけたトーマス・オマリー

前年、最終戦で勝利し最下位は免れたとはいえ阪神と同率の4位に甘んじたヤクルトは、昨年オフに広沢克己とジャック・ハウエルを巨人に放出し、シーズン前の下馬評は決して芳しいものではなかった。
しかし、広沢とハウエルの抜けた穴は阪神を解雇されたオマリーと千葉ロッテを解雇されたヘンスリー・ミューレンが埋めた。オマリーは自身初の30本塁打をマークし、ミューレンも下位打線で29本塁打。脇も古田敦也、飯田哲也らに加えて土橋勝征が台頭。野村克也監督から「影のMVP」と称されるほどの活躍でレギュラーに定着した。
投手陣も、テリー・ブロスがノーヒットノーランを達成して最優秀防御率のタイトルを獲得し、移籍の吉井理人と若手の山部太・石井一久と4人が揃って2ケタ勝利をマーク。投打ともに噛み合ったヤクルトが、予想を覆して2年ぶりの優勝を飾ったのだった。





・パ・リーグ
「がんばろうKOBE」オリックスが魅せた歓喜の瞬間


ルーキーながら15勝27セーブを記録。新人王を獲得し獅子奮迅の活躍をみせた平井正史

1995年1月17日、明石海峡を震源とした兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生。当時神戸を本拠地としていたオリックスも被害に遭い、一時は神戸での試合開催が危ぶまれていた。それでも宮内義彦オーナーの鶴の一声で神戸開催が決定。スローガンを「がんばろうKOBE」と定め、チームは一丸となってシーズンに挑んだ。
そのオリックスは、野手では田口壮、イチロー、トロイ・ニール、小川博文、馬場敏史、藤井康雄が規定打席に到達、イチローが本塁打王以外のすべてのタイトルを総なめにする大活躍を見せる。
投手陣も平井がリリーフながら15勝をマーク、抑えとしても27セーブを挙げる。先発では当時最年長のノーヒットノーランを達成した佐藤義則に1試合19奪三振の日本記録を達成した野田浩司、さらに星野伸之、長谷川滋利らがローテを固め、リリーフでも平井の他に鈴木平、野村貴仁らが脇を固めた。

チームは4月こそ勝率5割と開幕ダッシュは微妙ながら、5月から順調に勝ち星を重ねる。6月には19勝をマークし、波に乗ったチームは本拠地神戸での胴上げこそならなかったものの2位の千葉ロッテに12ゲーム差をつけてオリックス球団としては初の優勝を成し遂げた。





・日本シリーズ
「小林・オマリーの14球」で見せたヤクルトとオリックスの意地


日本シリーズ第4戦でオマリーと名勝負を繰り広げた小林宏(中央、背番号22)

2年ぶりの日本一を目指すヤクルトと、阪急以来でブルーウェーブになってから初めてのシリーズとなるオリックス。「野村ID野球vs仰木マジック」の対決、特に被災地神戸を背負ったオリックスにとっては特別なシリーズとなった。

初戦はヤクルト・ブロス、オリックス・佐藤の両ノーヒッター対決。接戦となったゲームは、5回に池山隆寛がタイムリーヒットで勝ち越し、さらに8回には代打の切り札大野雄次の2ランでオリックスを突き放したヤクルトが勝利を収めた。
2戦目はオリックスがD・Jのホームランで先制、5回にも1点を追加するが8回にヤクルトがオマリーのタイムリーで同点に追いつく。最後は抑えの平井をオマリーがホームランで打ち崩し、山部が抑えて2連勝。

敵地神戸で連勝を収めたヤクルトは3戦目もその強さを見せつける。試合はヤクルトが先制するが、オリックスが5回にイチローの犠牲フライで追いつく。しかしその裏に代打稲葉篤ノリの犠牲フライで瞬く間にリード。一時は山部が田口、D・Jのタイムリーで3点を奪われ逆転を許すものの、8回に古田敦也の内野安打、9回にミューレンのホームランで1点ずつを返して土壇場で同点に追いつく。最後はこの年シーズンで低迷していた池山隆寛のサヨナラ3ランでヤクルトが王手をかけた。
跡がないオリックスは第4戦、長谷川を先発させる。長谷川はヤクルト打線を5回の1点のみに抑え反撃を待つと、9回に小川が起死回生の同点ホームランを放つ。3戦連続の延長戦にもつれ込み、12回にはD・Jが勝ち越しのホームランを放った。
その裏、オリックスは10回から登板していた小林宏が1死1,2塁のピンチを招く。ここでバッターにオマリーを迎えたが、「小林-オマリーの14球」と後に呼ばれた名勝負の末に三振に打ち取り、続く古田もきっちり抑えてオリックスが辛くも1勝を収める。
しかし、小林を使ってしまったオリックスは5戦目に急遽高橋功一を先発させる切羽詰まった事態になっていた。オリックスは先制こそするもののすぐにヤクルトに逆転を許し、最終的には3-1でヤクルトが勝利。ここにヤクルト2年ぶりの日本一が決まった。
オリックスは日本一には及ばなかったものの、「がんばろうKOBE」の姿勢は翌1996年に受け継がれることとなる。





・アラカルト
日米を渡り歩いた最後の10.19戦士、吉井理人


2007年、千葉ロッテ時代の吉井理人

吉井は1965年、和歌山県生まれ。1983年ドラフト2位で簑島高から近鉄に入団。1985年には一軍に定着、1988年には「10.19」も経験。1989年には日本シリーズにも5登板するなど抑えとして活躍。1992年に一時不振に陥るが、1993年からは先発に転向して2年で12勝を記録。
当時の鈴木啓示監督との確執から1995年にヤクルトに移籍すると、完全に復活し先発として.3年間で33勝をマーク。1995年、1997年のヤクルト優勝・日本一に大きく貢献した。
1998年からはメジャーリーグに移籍。ニューヨーク・メッツ、コロラド・ロッキーズ、モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)で5年間プレー、32勝47敗1セーブをマークし一定の実績を挙げている。
2003年からはオリックスに入団して日本球界復帰。2004年には一時戦力外通告を受けるも、球団合併でオリックス・バファローズとなり」新たに監督に就任した仰木彬監督の進言で再びオリックスと契約。最後は2007年途中に平下晃司とのトレードで千葉ロッテへ移籍、同年に戦力外通告を受けて現役引退。2008年からは5年間北海道日本ハムで投手コーチを務めた。

吉井は日米の一軍・二軍とメジャー・マイナー、さらに先発・中継ぎ・抑えを一通り経験している。成績としても日米通算で121勝129敗62セーブ1ホールドをマークしている。なお日本でホールドが記録されるようになったのは2005年からで、吉井は日本でホールドをマークしたことはない。
かつての同僚だった野茂英雄とは仲が良く、フォークボールは吉井が野茂に趣味の競馬を教える代わりに教わったものらしい。なお趣味の競馬では、2013年にJRA(日本中央競馬会)の馬主登録申請が認められたほど熱中しており、自身のブログでもたびたび言及している。