プロ野球80年史 vol.32【1974年】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。

・セ・リーグ
中日が巨人のV10を阻止して20年ぶりリーグ優勝


打倒巨人に燃え、1974年は最多セーブに輝いた星野仙一

前年、6チームが6.5ゲーム差に迫る大接戦を演じたセ・リーグ。翌1974年、そのセ・リーグの主役の座に就いたのは中日だった。
中日は、投手では松本幸行が20勝を挙げ最多勝、星野仙一が抑えに回り最多セーブを獲得。その他にも三沢淳、竹田和史ら投手陣が奮闘。打線では高木守道、ジーン・マーチン、谷澤健一らが切れ目のない打線をつなぎ勝利を演出。
最終的にはゲーム差0の大接戦の末勝率の差わずか1厘で巨人を上回り、20年ぶりのリーグ優勝を果たしたのだった。

一方、巨人は王貞治が三冠王を獲得するものの、レギュラーにV9の強い印象は感じられなくなっていた。そして、この年長嶋茂雄が現役を引退する。





・パ・リーグ
「ジプシー・ロッテ」が金田監督のもとでリーグ優勝を果たす


「マサカリ投法」で通算215勝を挙げたロッテのエース、村田兆治

ロッテは前年から事実上の本拠地として宮城球場を使用していた。過酷な移動日程の中、当時の金田正一監督の下で野手では有藤通世、山崎裕之、弘田澄男らが、投手では木樽正明、成田文男、そして村田らが活躍。前期こそ上田利治が新たに就任した阪急に優勝を譲るも見事後期優勝を果たす。その勢いを駆って臨んだプレーオフでは阪急を3連勝でスイープ。4年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズに挑む。





・日本シリーズ
2回目の日本一をかけたシリーズはロッテに軍配


小柄ながらロッテ、阪神で活躍し通算1506本の安打を放った弘田澄男

ロッテと中日、後に2010年にも同じく大接戦を演じることになる顔合わせはともに1950年代に一度日本一を達成したことがある。
ロッテは4回目、中日は2回目となる日本シリーズは初戦、中日松本・ロッテ金田留広の投げ合いから継投、混戦となり最後は高木が村田から逆転サヨナラタイムリーを打ち中日が先手を取る。
続く2戦目はロッテが終盤に逆転し星を五分に戻すが、ロッテホームとなった3戦目は中日が序盤の5点を死守して再び勝ち越し。
4戦目、ロッテが一度は同点に追いつかれながら弘田、有藤の連続本塁打と岩崎忠義のタイムリーで突き放して再度星を五分に戻す。

混戦の様相を呈してきた5戦目からはまさに日本一を決めるにふさわしい展開が連続する。
5戦目は中日鈴木孝政、ロッテ木樽の投げ合いで、ロッテがもぎ取った2点を木樽がわずか2安打無四球完封で抑えてロッテが王手。
6戦目は村田と松本の投げ合い。ロッテが先制すれば中日が追いつく、さらにロッテが勝ち越せば中日も追いすがるというシーソーゲームを展開したが、延長10回に星野が弘田に勝ち越しタイムリーを打たれ、裏に続投した村田から点を奪えず。
全体的に投手陣をつぎ込み、拙守も連発してしまうお粗末さも伺えたシリーズだったがこれでロッテは2回目の日本一に輝くことになった。
反対に日本一を逃した中日は、次に日本一に輝くまでさらに30年以上の時を待つことになる。





・アラカルト
「お前ら、帰る準備しとけや!」高井保弘の神の如き代打の一振り


通算代打本塁打数の世界記録を樹立したこともある「世界の代打男」高井保弘

高井は愛媛県出身。今治西高時代からそのバッティングには一目置かれ、社会人野球を経て1964年に阪急に入団する。
複数の球団から注目されていた通り、高井はファームでタイトルを取り続ける。しかし変化球が苦手で、さらに守備に難があった高井のレギュラー起用に当時の西本幸雄監督は難色を示し、一軍で使われたとしても出番は代打に限られた。さらに当時高井と同じ守備位置にはダリル・スペンサーがいて割り込む余地がなかったのである。当時パ・リーグには指名打者制がなかったため、高井がスタメンに名を連ねることは少なかった。

それでも高井は、同じポジションのスペンサーからその野球に対する姿勢を学んでいく。その過程で身についた「相手投手の癖を見抜く」と言う彼の武器が、のちに「世界の代打男」と言わしめる実績につながっていった。
1972年から一軍に定着し始めると、代打の1打席で高井は本塁打を量産。1974年の時点ですでに当時の日本記録だった通算代打本塁打14本を放っている。高井唯一のオールスタ出場となった1978年のオールスターでは史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を放ち、勝負強さをまざまざと見せつける。
1975年には当時の通算代打本塁打数を更新、そして指名打者制が採用されると高井はDHに座りいよいよレギュラーとしてその巧みなバッティングコントロール、勝負強さを発揮。2シーズンで打率3割に到達している。
再び代打に戻った1980年以降もその長打力は衰えず、1982年に引退するまで130本のアーチを架け続けた。