プロ野球80年史 vol.13【1955年】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。

・セ・リーグ
巨人が大差をつけて2年ぶりV


この年の本塁打王を獲得した町田行彦

この年、現在にまで続くイースタン・リーグ、ウェスタン・リーグが発足。セ・リーグの二軍チームで構成された「新日本リーグ」を母体に結成された2つのリーグは、途中の中断を挟みながらも、昔と変わらず未来のスター選手を輩出している。
セ・リーグは巨人が独走。前年優勝の中日に15ゲーム差をつけている。
タイトルも、川上哲治がMVP・首位打者・打点王を受賞したほか、ベストナインにも4人が名を連ねた。





・パ・リーグ
南海が日本記録を打ち立て2年ぶりのペナント制覇


1955年のパ・リーグMVPを受賞した宅和本司

昨年、西鉄に初優勝を許した南海は開幕にいきなり10連勝。しかし西鉄は南海の独走を許さず、実に25回も順位が入れ替わるデットヒートを繰り広げる。
しかし8月以降は大型連勝を繰り返すなどして首位の座をがっちりと固めると、終わってみれば100勝の大台まであと1つに迫る99勝を挙げ、西鉄に9ゲーム差を開けて2年ぶりにペナントを制したのだった。





・日本シリーズ
巨人が大逆転で2年ぶりの栄冠


荒れ球とキレのいい変化球で相手打線をねじ伏せた中尾碩志

2年前と同じ顔合わせになったシリーズ。雪辱を期したい南海は、1戦目こそ落とすものの2・3・4戦と接戦を制して3勝1敗で王手をかける。
しかし巨人が底力を見せたのは5戦目からだった。5戦目を一度は同点に追いつかれながら連打で一気に4点を追加してものにすると、6戦目も初回の2点を守り切って逆王手をかける。
そして7戦目は別所毅彦が貫録の完封勝ち。大逆転で日本一の座をもぎ取ったのだった。
反対に王手をかけながら初の日本一を逃した南海は、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄されてしまった。





・アラカルト
「シュート打ちの名人」山内一弘が伝えた確かな技術


「ミサイル打線」の中軸として活躍した山内一弘

山内は1952年に毎日に入団。ルーキーイヤーからいきなり打率.336とその大器の片りんを見せると、3年目には完全にレギュラーに定着。西鉄の「怪童」中西太と毎年のようにタイトル争いを繰り広げ、中西の三冠王を1打点差で阻止したこともあった。
そんな山内の代名詞は「シュート打ち」。反復練習のたまもので、その自然かつ華麗なさまはたびたび「芸術」と称され、日米野球で山内のバッティングを目の当たりにしたメジャーリーガーたちは口を揃えて「山内はメジャーで通用する」と太鼓判を押した。
またオールスターゲームでは毎回のようにMVPをかっさらっていったことから「オールスター男」「お祭り男」「賞金泥棒」とも呼ばれた。
そんな山内は、1963年オフに小山正明との交換トレード、すなわち「世紀の大トレード」で阪神に移籍。ついで1968年には広島東洋に移籍した。阪神、広島では野球に対する真摯な姿勢で若手のよき見本となり、また自身も阪神時代に通算2000本安打を達成する。
引退後は日台のべ9球団でコーチを務める。コーチとしては、一度指導するとなかなか終わらなかったことからその商品のキャッチコピーにならって「かっぱえびせん」と呼ばれ、熱の入れようは時に相手チームの選手にまで指導するほどだった。
監督としてもロッテ、中日で6年間指揮を執り336勝を挙げる。優勝こそできなかったが、3回Aクラスにも入っている。