ふくちゃんのブログ
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ご無沙汰でした

お友達から、夏のランチのお誘い電話がかかってきました。
まあうれしい!どこに行こう!!!わくわくしています。

電話の最後に
「最近ブログ更新されてないから皆心配しています」
あらそうでしたか。ごめんなさい。

そうおもってチェックすると結構ヴューがあるので
皆さんに心配をかけたのかしら・・・。

5月の最後の週に英国からお客様が色々やってきて
その準備と対応と後片付けにへとへとでした。
やれやれーです。

少し落ち着いたとおもったら
来月は歌の強化練習があるし
毎週末倫理の会に誘われて早起きだし
なんだかよくわからないけど
大変です。

でも
楽しみにしてくれる方がいらっしゃるので
ブログも手を抜かずにがんばろうと思いました。
又お付き合いください。

ふく











さよならもいえなくて


連休は仕事と宴会と二日酔い。
締めの今日はバッハのロ短調・・・と
なんだか慌しい毎日でした。

そして・・・
ブログを見ますと、
楽しみにしていたあるブログが
今日で退会しますと閉じられていました。

あら・・・・

ふとしたはずみでつながって
ものの見方と語り口が楽しくて
更新を楽しみにしていました。
エスプリって言葉はこのひとのため?と思いつつ。

それが
なんだかあとかたもなくなくなってしまう、というのが
ブログのお友達なんだなあと
さみしい限りです。

いろんな思いもおありだったことでしょうが
今はそれを窺い知る術もなくなってしまいました。


歳を取るということは
いろんなことを
しょうがないよね、そういうものなんだよ、と
納得する術を身に付けるということ。
こんなこともあるさーと
淡々と受け止めたいものですが
今日一日は、残念な気持ちに浸っていましょうか。

出会いは別れの始まりですからね・・・・

そんなことをかみ締めつつ。


ふく@とてもたのしいブログでした。ありがとう。





5月の青山


ふくちゃんのブログ

A to Z cafeというのが近所にあります。

奈良美智とのコラボカフェってことで

奈良美智のアトリエがカフェの真ん中に再現されていたりして

奈良ファンにはたまらない。


私は特に大ファンってわけでもないので

そっち方面の感動は薄いんですが:^^:

でも、

ここのまったりした空気が気に入って

良くお昼を食べに行きます。


今、屋上のroof top cafeがオープンしていて

とても気持ちがいい。


パラソルがないので日焼けがちょと心配ですが

何より青山の空が広々と広がって

運が良いと、

お客様が誰もいない瞬間、

ぼーーーーーーー

ひとりでぽっかりした時間の中にいるのが

なんとも贅沢な。


ついつい足がそっちに向いてしまう今日この頃でした。


ふく@連休なのに仕事、サービス業だからねえ・・・


『茗荷谷の猫』 木内昇

『漂砂のうたう』で、
軽い話ではないんだろうなとおもっていました。
でも短編集だし・・・・と
ちょっとたかをくくってしまったら、
なんのなんの、
連作短編だったんですね。

染井吉野から始まって
終戦後まで
出てくる人が少しづつずれながら
河の流れのような連作が続いていました。
あ、そうだんた・・・・と瞠目。

決して幸せになれないお話がいくつもあります。
そうだよね・・・とうつむいてしまうお話もいくつもあります。
軽くないんだよね、人の人生って。
そんな風におもって嘆息してしまうような
お話がいくつもあります。

力のある人だな、と思います。
ちょっとこわいけど
読み続けなくては、この人のは、と思わせられました。


ふく@新作が楽しみな人がまたひとり、ふえました


パティスさんのお話会

http://patisweet.exblog.jp/

4月29日、
パティスさんのお話会に呼ばれて
行ってきました。

パティスガストロノミーさんは
鈴木先生がなさっているお菓子やお料理教室の会ですが
ここのすごいところは
いろんな食材やレストランやパティスリーの小冊子を
毎月自費でお出しになっていることで、
食に対するちゃんとした情報を伝えたいという情熱が素晴らしくて
私は鈴木先生とパートナーの三輪さんの
大ファンでもあります。
お二人にお声をかけていただきましたので
それは行かねばなるまいとはせ参じました。

20,30分の持ち時間で
オーガニックでものづくりをするのがいかに大変か
ってな話のはずでしたが
シェフの被災地訪問や料理ボランティアの会のことやら
色々言っていたら
あんまりオーガニックの話が出来ませんでした:^^:

ま、いいか。
お店に来てもらえたら
美味しさがわかりますしね。


ふく@ソーセージ、とても美味しかったです、
   当たり前に当たり前の作り方をしているだけなんですよ、
   というマルニさんのお話が印象的でした。

1時間で読める 『「又、必ず会おう」と誰もが言った』

$ふくちゃんのブログ


吉原十二月は
毎日一月か二月、
撫でさするように読んでいました。

この本は1時間で読める。

でも、何時間も考えてしまう本でもありました。

優しい物語で
こんなにいい人ばっかりいないよ、みたいな物語ですが、
忘れていたことを思い出させてくれて
勇気をくれる本。

だれかを幸せにしてあげること。
自分のことに自分でちゃんと責任持つこと。
そして、
いのちに限りがあること。
・・・・・


今、語られるべきものがすべてちゃんと含まれています。

何をしていいかわからなくて戸惑っている若い人が
まわりにもいます。
そんな人に回してあげよう、
と思いました。



この本を回してくれたのは
私よりいくつも上の方で
彼女とはほんの趣味が合います。
山田風太郎の『人間臨終図鑑』もおもしろがってくれたし
感性が似ているんだとおもう。
その彼女が、
これとにかく読んで、とくれました。

大人でも
そういえば・・・・って
いろんなことを思い出すのかもしれませんね。



ふく

本を読みました 花魁話2つ


松井今朝子さんは、『吉原手引草』で、へえーと思い、
『円朝の女』で大泣き。
『円朝の女』は私のベスト10に入りますが
その松井さんの新作、吉原だから
これは買うしかない。

吉原の、それも一番良い時代でしょうかね、
松井さんらしい語りでした。
最後の落ちも綺麗、綺麗。


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しばらく前に読んでいた、こちら。
根津が舞台なこともあって、つい購入。
後でまわした根津のお友達の評価がむちゃむちゃ高く
「これぞ根津」。
谷の底の滞った空気感が、そのまま。
決して華やかではないし、楽しいお話ではありませんが
深いこといえばこっちでしょうね、

あとは好き好き。

木内昇さんというこの作家さんに
興味をもちました。


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本を読もうかな、から
本を読みたいな、に
やっと気持ちが向いてきた感じです。

ふく



新大久保 「こより」

facebookで、「外食産業を勝手に救済する」というページがあります。
本当に今東京の外食シーンは低調で
何とかしなきゃという人たちのページですが
私も時々参加します。
昨夜は、歌仲間と新大久保へ。
ところが昨夜は救済どころか、どこもものすごく込んでいて
居酒屋難民に。
散々漂流した挙句にやっと私達が救済されたのが
この「こよし」。
「こよし」?ってなんて意味、?とおもったら
亀戸に「なかよし」というお店があって
その姉妹店だそうで。「なかよしこよし」・・・ね。

さて、漂流の挙句入れたので、
正直全く期待していませんでした。
ところがどっこい、
ここはすごい。

だいたい店長一人できりもりなさっているので、
私たち7人が入った後に入ってきたお客様に
「時間かかりますけど良いですか」
オーダーされてもなかなかでないよ、といっているわけで
正直すぎ・・・。

そして、食べ物がとてもまっとうなことにつぎにびっくり。

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ここのハムカツは2センチはあったのではなかろうか。
メニュー写真よりさらに分厚いという
およそ外食産業の常識の逆を行く姿勢に
もうひとつびっくり。


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ちなみにここの卵焼きはとても好みでした。
甘くなくてふんわり。
母の卵焼きみたい。

最後にびっくりはその安さ。
結構呑んで食べたのに2500円オールだった。
なんだここは?
毎週救済しに来ないと、早晩つぶれてしまうのではないか、
あまりに良心的なので・・・と心配してしまうほどでした。


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店内には、昭和のスター?たちのブロマイドがどっさり。
これは誰?と当てていくのも、酔客の楽しみなのかしらん。
私達もついつい夢中になりました。

どうしてもわからない人が何人か。
店長に聞きましたら、本店「仲良し」の店長が選んだんで
僕わからないんですよーと正直なお答え、
なんとも商売っ気のないところが
不思議な大衆食堂だったのでした。

ちなみに、マス酒は表面張力一杯。職人技!
座布団3枚!って感じでしたね。

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ふく@ハーブソルトとかが大衆食堂にあっていいのか・・・・
   なんとも型破り。がんばれ「こよし」! 

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先週、シェフの掛川が東北に入りました。


シェフの現地レポートです。

わずかな期間でしたが、サライさんに同行させていただき
アル・ケッチャーノの奥田シェフやアルフィオーレの目黒シェフらと
炊き出しのお手伝いをさせていただきました。
百聞は一見にしかず、なのでしょう、
行ってくる前と帰ってきてからでは、やはりいろんなことが違ってきたようです。

「炊き出しは南三陸町に行きました。
本当に言葉が出ないというか、
町が丸ごとないんです。
津波がここには30mくらい押し寄せたのだと思いますが
ビルの4階くらいまで、ここまで波が来たというのがはっきりわかる、
爪あとが今も尚そのまま残っているんです、
そしてその4階までに、車やいろんなものが突っ込んでいるのがそのまま。

街はほとんど人影はなく、自衛隊の人や瓦礫の撤去の人たちが
若干いるだけ」
と、惨状を目の当たりにしたこと、
見たままを語ってくれました。

「僕が行った避難所は丘の上の中学校で
ここはとても恵まれていました。
ずっとNHKが入っていて、各個人宛にも救援物資が届き、食糧も豊富でした。
炊き出しも、被災直後からお母さんたちを中心に始まっていました。」

お母さんや子供たちは元気ですよ、と掛川シェフ。
でも・・・・と歯切れが悪くなるのは
「ここにはほんとは120人くらいの被災者がいるはず。
でもお天気も良いのに外に出ているのは20人くらいで
後の方たちは閉じこもってしまっている。
食事も120人の方が皆外に出てきて食べたとは思えませんでした」

やはり男性は、家族や仕事など背負うものが大きくて
その先を考えてしまうから
ふさぎこみがちになるのか。

「このコミュニティは、比較的恵まれているのできちんとした小さな社会が出来つつあります。
でも、
丘の上から少し下に目を転じただけで
そこには瓦礫の山の現実がある。
今は皆、そこから目を背けている、そんな気がしました。

ボランティア本部も訪れたそうですが、
「ここは、ある種のお祭り、文化祭みたいになっていて
野球選手がキャッチボールをやり、相撲取りがいて、
ある種の盛り上がりがあります。

でも別の避難所、ホテル海洋というところは、60人くらいが避難生活をしているのだけれど
そこはやっと数日前に電気や水道が着たばかりで
孤立していました。
ホテル自体は被害がなかったので、逆に救援物資が届かないという事情があるようです。
まだサンドイッチやおにぎりしか食べられない、
暖かいものが食べられていないという、避難所ごとの格差が今
大きくなっているんだということを実感しました。

被災地にある食べ物は、どうしてもいたみにくいもの、だから
レトルト食品やかんきつ類などになり勝ち。
毎日カレーやトン汁なので、普通の食事がしたいという欲求がだんだん強くなっているのも
恵まれたほうの避難所では感じました。
また、野菜サラダなんて食べられない、
そういう食物のかたよりの影響が出てきている気がします。

最初に入った仙台の避難所は850人を収容しているから
未だにおにぎり2個の生活。
なぜかというと、ここは大きすぎて、炊き出しが出来にくいのです。
するなら全員分を、といわれてしまうと
300人分くらいなら用意なのですが
850人はかなりのボリュームで、おいそれとはできない。
そして、行政も避難所をオープンにしていないので、
ボランティアや炊き出しをしたい人たちはどこに行けばいいのか
手探りで情報を求めながら、であった人に対してやっているというのが実情のようです。

気仙沼は、南三陸と違って半壊の家も多く
そうすると半壊の家に住んでいる人も大勢いる。
そこへの炊き出しをボランティアの人がやるわけですが
これはなかなか手が回らない。

春になり気温がこのところ上がってきているので
食品の衛生状態も気を使います。
またノロウイルスがはやっているので手洗いやうがいを励行されますが
それも水がある人しか出来ない、というのが
今の現実でした」


場所や状況によってほんとにずいぶんいろんなことが違ってきているのだなと
やむをえないのでしょうが、避難所ごとの格差に胸を痛めた掛川でした。

「もう震災から1ヶ月をすぎ
炊き出しなどをしているボランティアの方たちも限界に近いのではと
心配しています。
気持ちだけで今はたっている感じがして、
僕らが外から応援しないと戸言う気持ちを強くしました。

サラダの葉っぱをちぎるだけでも大変、そしてそれは一般のボランティアの方でもできるので
そんな手助けもして欲しい。
僕らのような料理人は、料理人にしか出来ないことをやっていかなくてはと思います」

もっともっと声をかけて
たくさんの仲間が必要だと実感したこと。
そして、現地とつながって必要なところに必要な人と資源を配分することの大事さを
痛感してきたようです。

今APバンクの人たちが
高校の調理場を借りて、カレーを一日3000人分作ってはパックしていっています。
JAがつながっているそうです。


できるだけたくさんの人がつながって
無理と無駄のない支援をしていかなくては、
本当に今現場でがんばっているボランティアの人たちがたおれてしまう、
そんな危機感を持って帰ってきました。

そして、
GWにボランティアなどに行く人も多いと思いますが
「現地は車が大渋滞を起こしている。
ふだん2時間あればいけるところへ3時間かかるなど
とにかく道が渋滞して、おもうようなことができないという面もあります。
できるだけ公共のバスや新幹線、飛行機で入ってください。
車では行かないでください」
と、現地の方の代弁でした。


これから何をしていかなくてはならないのか、
今考え始めています。

「もっと仲間を増やすこと。調理人もそうでない人も。
そして今は
避難所や被災者の方方の状況に差はあれ、
だんだん生きるための食から、復興のための元気を貰う食へと
段階が移ってきている。
復興までの希望をつなぐ食を、僕ら料理人は提供していきたいし、
そのために、今回つながった人たちとのつながりを大事にして
東京と現地を結んで生きたい。

具体的にはまずは東京の調理人を必要に応じて現地に送ること、
その具体的な方法を作ることに注力したい。」
そんな風に語っていました。

現地空の情報が乏しい、つなっていないということは多くあるようで
それをつなごうとしている方々も出てきています。

一人でやれることより二人、五人、十人と
たくさんの人でやれたほうが、できることはより大きくなる。
たくさんの人がつながって行かなくてはと思いました。

被災なさった橋本先生のお話です

タイトル「大地震そしてこれから -被災者の立場と街づくりの視点から-
講師:橋本 和夫 (東北大学大学院 情報科学研究科教授)
【講師プロフィール】
東北大学大学院 情報科学研究科 教授 KDDI研究所取締役、KDDIアメリカ研究所所長を経て、2006年4月より東北大学大学院 教授。人工知能の権威で、スタンフォード大学やUCバークレー校、シリコンバレーのベンチャー企業などに太いネットワークを持つ。その一方、2007年に「仙台都市ビジョン会議」の議長を務めるなど、街づくりに対しても豊かな見識を持つ。

仙台で被災もなさった方の講演会があり、行ってきました。実際に被災をなさった方にお目にかかるの初めてでした。飾らぬお人柄、感情的になることなく淡々とお話をしていかれましたが、冒頭「47日の最大の余震のときのキッチンです」と写真が一枚。食器棚が崩れて中のものが散乱している写真です。「「キッチンの棚が崩れるほどしたので、揺れのほどをご想像いただけると思いますが、でも今私達はこの程度だと、お宅はいかがでしたかという挨拶に、うちはたいしたことありませんよと挨拶を返す、そんな状況です。崩れて住めないとか焼きだされたとか、そういうのを大変というのであって、この程度はたいしたことではない、と言う状況です。」とお話をされました。

最初に、今回の数百回の地震分布の資料を見せてくださり、プレートの位置関係と、ほとんど青森から千葉沖まで500kmに渡って地震の震源地画面として分布している様に、改めて日本の東側がぐらぐら揺れていることが実感できました。そして今回の地震の規模。世界的に見て4番目だそうで、①チリ沖M9.5、②アラスカM9.0 ③インドネシアスマトラM9.1 それに継ぐ4番目ではないかということでした。死者の数は、インドネシアスマトラが23万人と桁外れに大きく、これは津波が海を渡ってスリランカやインド東部、どころかアフリカまで行って死傷者を出したためで、津波ってほんとにすごいことなんだと、今は実感できます。関東大震災は10万人、阪神淡路が6500人。今回は3万人を越えるといわれており、途方もない災害であるとわかります。

次に東北地方について説明があり、東北地方は幹線道路、鉄道に沿って内陸が開けており、今回の被害は海岸線に集中していること。津波のためであったことがあらためてわかりました。

さて、実際に仙台におられたときに被災なさって、ご自身も駅前のホテル 泊された、そのホテルは避難所ではなかったが、行くあてのない人に広間を解放された、食事も出してもらえて本当に助かったとおっしゃっていました。10日ほど避難生活をされ、避難所の炊き出しを受けた そうですが、どこでも決まっておにぎり2個。これは多分決められたことなのでしょうが、判を押したようにおにぎり2個でしたとのこと。

(ホテルモントレー仙台でした、このホテルの心意気は見上げたものでした、とも)

地震によっておこること。

「まず電気が止まったので、信号も何もとまる。交通渋滞が起こる。そしてソーラーパネルは停電するとインバータが動かないため、通常の電気機器を利用するためには役に立たなくなる。 ケータイも不通になる。

大変なのは、家で要介護のお年寄りがいらっしゃると世話を仕切れなくなる、でももう施設は一杯なので、やむなく県外のご親戚を頼らざるを得なくなるという方が多く出てきます。

復旧の順番は 電気→水→ガスで、お風呂の問題はとても大変、何日もお風呂に入れないのはやむをえないが、やはり厳しい。そんな時、オール電化のおうちの方が、「どうぞお風呂に入ってください」と他人にお風呂を貸し出していた、それが当たり前のようになっていました。(それはすごいことですね!)

交通はすべてストップ。高速や新幹線は、高架の強度 確認もありますし、送電柱もドミノのように倒れているのを戻すなどが必要になります、仙台空港は津波の被害に会い、船舶も港がやられているのでだめ。今回は山形に出る道路が早期に つながり、山形空港経由もしくは山形から日本海側経由帰るのがやっと最初につながった経路でした。

携帯も、基幹通信網が途絶したためにつながりにくい状態が続きました。通信各社が高速道路沿いに敷設した主要光ファイバーが断線しました。KDDI では海底光ケーブル網も地震でやられたためバックアップできず、衛星を使って復旧させたようですが、通信サービスの復旧には2日ほどかかりましたでしょうか。

そんな中、すごいとおもったのは外国の対応で、自国民の救済対応にバスをチャーターして仙台市役所まで乗り付けるなど、「国が自国民を守る」のが基本であると改めておもわされました。日本もそうであって欲しいものです。

海外のことについて言えば、各国からの支援がなかなかスムーズに受け入れられないことに苛立ちを覚えます。せっかくの善意を受け入れる準備がないので、せっかく来た救援隊を返すことになってしまったり、医療の資格などの要件を云々していて救援してもらえなかったり。こういう未曾有の災害について自治体が平時から受け皿を作るのは難しいので、国にやっておいてもらわないといけないが、それが出来ていないことが残念でした。

今回書道で一番活躍したのは、文句なく自衛隊です。警察も消防もまず道を作ってもらわないと何も出来なかった。そういう非常事態という認識がないのが、今の日本政府ではないかと思います。

現地の衛生状況も大変懸念され、幸い寒い時期でしたが、収容された遺体は袋に入れて並べていくしかない、と言うような状況。アメリカでは軍が救援に来ると予防注射を有無を言わさず打つ、と言う対応が取られますが、今回伝染病対策にまで手が回っていないようで、心配です。

道路、鉄道画と途絶し、ガソリンが入れられないという状況が起こりました。こうした災害時は緊急指定車両のみガソリンが優先的にもらえますので、一般の車両は入手できない。したがって物資不足が起こる。水は最も重要で給水車も出て給水していましたが、何時間も並んで水を手に入れないといけないというと、若くて体力のある人しか貰いにいけないということも起こっていました。

それでもトラブルが少なく、強盗などもなく治安も保たれていたのは、各メディアが報じたとおりです。

被災した中で気づいたこと、考えたこと

被災した側には情報発信力がない、ということです。通信網もなかなか復活しないし、現場では一から十まで全てを自分たちが動いてやらねばならない。救援物資の荷物の仕分けや配達なども全部、被災した側の人間がやっていくと、情報発信まで手が回らないという状況もあります。発信の仕様がないので、救援する側から情報を取りに行くよりほかない、ということなのです。

特に初動の時期は、プロがいくよりほかない。プロじゃない人がボランティアに行っても実は役に立たない。それでもご飯は食べますので、プロじゃない人が来ると貴重な食糧だけ消費していく、と言うこともおこりうることです。その中で、では救援する側は何ができるかということですが、被災した自治体側は、総出でそれこそ支援物資の仕分けや配達にかかりきりのような状況もありますので、たとえば救援したい自治体が総務グループを丸ごと貸し出す、というようなことができるといいです。そうすれば被災自治体の総務を丸ごとそちらが負い、その分現場の業務に当たることが出来る、と言う玉突き救済が可能になります。

復興に向けて

一番大事なことはビジョンです。今20兆とか30兆とかいう金額だけが一人歩きしているが、そのお金も既存の港湾施設と建物を建て直しすればなくなってしまう。東北はもともと過疎で苦しむ地で、その過疎の地を、お金をかけて又作るのかということになる。また、そこには国費を投じるわけで、日本全国の国民の税金が投じられる。それは本当に使い方としていいのか、国民の納得が必要です。

今日本中に、空いた公団住宅や限界団地と呼ばれる、住人が高齢化している団地群などもありますが、そういう既存の空きスペースに入居していただくというのも、一つの考えです、支援がしやすいということもあります。巨額のお金を投じるときに、出来るだけ有効な使い方をすべきで、一部ゼネコンだけが潤うというようなことは避けたい。

復興に当たっては、内陸の再建の仕方と海岸側の再建の仕方が違うので、それぞれにモデル都市を一つづつ選んでやってみる、それがよければ次の都市も・・・という風にやっていけばいいのではないか。いずれにせよ、今の復興支援に被災地域そのものが参画できないと、責任者不在の復興になってしまう。国はプランだけ出してあとはよろしく、というのでは、よくない。同時に、東北も復興資金を受け取って使っていくなら「日本経済を活性化させるドライバーになります」と言う宣言をするくらいでないといけないと思います。

健康支援やメンタルケアの支援の段階、そして再就職支援など、次の段階の支援活動が必要になってきています。

最後に、復興のイメージを早く出していくことが大事だし、またそれに衆知を集めていきたい。

一人ひとりできることが違いますが、できることを集めていきたいと思います。 

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