浅井昭衞先生 御略歴 | 人生の目的とは何か?  人生の目的は 成仏 にある。

人生の目的とは何か?  人生の目的は 成仏 にある。

将来、日本、中国、インド及び 世界中の人々が
必ず実践する究極の方法が、ここに書かれてます!!\(^^)/
他事(邪宗の執着)を捨て、
日蓮大聖人を信じ 南無妙法蓮華経と唱えましょう(^人^)

昭和六年

 

一一月三〇日、

 

日蓮正宗 妙信講

 

(顕正会の前身)

 

初代講頭・

 

浅井甚兵衞先生を

 

父として

 

東京にご出生。

 

 

一六歳のとき、

 

立正安国論を

 

拝読して、

 

日蓮大聖人の仏法こそ

 

国家安泰の唯一の

 

秘術たるを知り、

 

その後、冨士大石寺

 

第二六世・日寛上人の

 

御筆記にて

 

教学を研鑽。

 

 

二〇歳で中島円妙院

 

日彰上人

 

(管長代務者、能化、

 

妙光寺住職)の

 

六巻抄講義を

 

受けたことを機に、

 

日彰上人より

 

富士門流の法門や

 

明治以降の宗門の

 

内情等について詳しく

 

伝え聞く。その中、

 

日蓮大聖人の仏法を

 

精魂を傾注して

 

習学し、

 

昭和三〇年代には

 

妙信講の青年部長を

 

務められた。

 

 

しかし当時の

 

所属寺院・法道院

 

東京池袋)の住職に

 

広宣流布の道念なきを

 

見抜いた先生は、

 

苦悩の末に、

 

宗務役僧で

 

宗門最大派閥を率いる

 

住職に対し

 

「広宣流布のために、

 

本気になって大法弘通

 

に立って頂きたい」と

 

直諫。

 

聞き入れぬ住職の

 

無道心を見て、

 

初代講頭先生とともに

 

妙信講の再建を

 

ご決意された。

 

 

その船出は

 

住職の妨害により

 

困難を極めたが、

 

先生は広宣流布・

 

死身弘法の道を

 

選ばれ、

 

五里霧中のなかにも

 

新生・妙信講を発足。

 

時に昭和三二年

 

八月三日、先生は

 

二五歳であられた。

 

 

この妙信講の至情は

 

時の貫首上人・

 

第六五世日淳上人の

 

嘉するところとなり、

 

昭和三三年

 

一月一五日、

 

本山において、

 

日淳上人より正式に

 

認承状が授与された。

 

 

その際「熱原の

 

法華講衆のごとく

 

戦う法華講となって

 

広宣流布に

 

御奉公せよ。

 

まず三千の弘通を

 

成し遂げてみよ」との

 

日淳上人の

 

お励ましに、先生以下

 

居並ぶ幹部は

 

感泣した。

 

またこのとき

 

日淳上人が宗規上の

 

指導教師に定めて

 

下さったお方が、

 

松本日仁尊能化で

 

あられた。

 

 

新生・妙信講に

 

馳せ参じた同志は

 

三八〇名。これより

 

大地を這うような

 

死身弘法が

 

開始された。

 

 

昭和三四年一一月、

 

日淳上人の御遷化の

 

悲報に接せられた

 

先生は、

 

衝撃と悲嘆の中に

 

「日淳上人への

 

御報恩は三千をめざす

 

弘通以外にはない」と

 

折伏弘通に

 

徹せられた。そして

 

発足より六年後の

 

昭和三八年九月、

 

ついに

 

三千を達成した。

 

 

時同じくして宗門の

 

状況は一変した。

 

創価学会・第三代会長

 

に就任した池田大作

 

が、第六六世・

 

細井日達管長を籠絡し

 

て宗門統制を開始。

 

 

ために妙信講は

 

苛酷な試練と忍従を

 

余儀なくされた。

 

いつ潰されるか知れぬ

 

薄氷を踏むごとくの

 

日々を、先生はただ

 

「忍」の一字に徹し、

 

妙信講の命脈を

 

保たれた。

 

 

昭和四〇年代、

 

池田大作が政治野心の

 

ために「国立戒壇」の

 

御遺命を破壊せんと

 

するを見て、

 

先生は

 

「この大悪を見ながら

 

知りながら、もし

 

黙っていたら、

 

大聖人様に対し奉る

 

最大の不忠になる」と

 

思い定められ、

 

昭和四五年

 

三月二五日、

 

「正本堂に就き

 

宗務御当局に

 

糺し訴う」の

 

一書を認め、

 

身を捨てて諫暁に

 

立ち上がられた。

 

 

これに対し池田大作

 

は、宗門に「日蓮正

 

宗・責任役員会」で

 

「国立戒壇の否定」を

 

議決させ、次いで時の

 

貫首・細井日達管長に

 

「国立戒壇放棄」の公

 

式決定を宣言させた。

 

 

ここに先生は、

 

細井管長の面前で

 

学会代表と論判され、

 

その結果、「今後、

 

正本堂を御遺命の戒壇

 

とは言わぬ」旨の

 

確認書に学会代表が

 

署名、正本堂の誑惑は

 

訂正された。

 

 

だが、池田は

 

この確認書に

 

違反した。

 

 

昭和四六年

 

一一月一五日、

 

先生は悪の元凶たる

 

池田大作に対し

 

「正本堂に就き

 

池田会長に糺し訴う」

 

を送付された。

 

 

これに周章狼狽した

 

池田は昭和四七年

 

四月二七日、

 

細井日達管長を盾とし

 

て「日蓮正宗・責任役

 

員会」で「訓諭の公

 

布」を議決させ、翌二

 

八日、正本堂を「御遺

 

命の戒壇」とする旨の

 

「訓諭」を発布せしめ

 

た。

 

 

先生は即日、池田大作

 

に対し公場対決を迫る

 

書状を送付された。

 

 

池田はこれを逃避し、

 

妙信講の説得に宗務院

 

総監・早瀬日慈と教学

 

部長・阿部信雄を当ら

 

せたが、

 

 

先生の強き諫めの

 

前に、二人とも

 

細井管長に辞表を

 

提出。

 

宗務院は機能停止に

 

陥った。

 

 

昭和四七年七月六日、

 

先生は細井管長と

 

対面。細井管長は

 

訓諭の誤りを認めて

 

先生に訓諭の訂正文を

 

手渡し、宗門機関誌に

 

それを掲載すると

 

約束された。

 

 

しかし学会の圧力に

 

屈した細井管長は

 

「もう私にはどうにも

 

ならない。どうか、

 

あなたが学会代表と

 

話し合って解決して

 

下さい」と、全権を

 

先生に委任した。

 

 

先生は池田大作に

 

書状で面談を

 

申し入れられ、

 

その文末に「もし

 

御遷座を

 

強行するならば、

 

妙信講は護法のゆえに

 

これを阻止、ただ

 

一死を賭して在家の

 

本分に殉ずるのみ」と

 

記された。

 

 

ここについに学会代表

 

との法論が実現。

 

一〇月一二日の正本堂

 

落成式を眼前にして、

 

最後の法論が常泉寺に

 

おいて、九月一三日よ

 

り同二八日までの間、

 

七回にわたって行われ

 

た。第六回の二七日に

 

至り、ついに屈伏した

 

学会代表は、聖教新聞

 

紙上に誑惑の訂正文を

 

掲載することを応諾。

 

 

かくて訂正文は

 

昭和四七年

 

一〇月三日の聖教新聞

 

第一面に掲載された。

 

正本堂落成式の九日前

 

であった。

 

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