小さいころから文章を書くことが不得手でした。

作文の時間なんか、白紙の原稿用紙と長時間にわたってのにらめっこです。

なぜこんな事態になってしまったのか?

今、大人になって考えてみると、小学校の頃の音楽の時間の経験が
大きく影響しているようです。

ある、音楽の時間、なにかのクラッシクのレコードを鑑賞した際に、
「このレコードを鑑賞した時に感じたことを、絵に描いて見なさい」
こんなことを言われました。

私は何のこだわりもなく感じたままを意気揚々と描いたようです。

それを先生は、「こんな感じ方はない」という意味のことばで、
こっぴどく批評してくれたのです。

言葉は忘れましたが、当時はとても大きなショックを感じたことは
覚えています。

感じることにも正解があるんだ!!

この、影響は大きかったようです。

「作文の時間には感じたことをそのまま書きなさい」と、言われます。

でも、自分の中では「感じたこと、感じること」には正解があるはずなのです

その正解ではないとまたこっぴどい批評を受けてしまうのです。

そしてその正解は、自分の中に見つけることができないのです。

だから、正解のわからない自分は、当然、作文を書けないことになってしまいます。

だって、当時の自分は成績がよかったのです、
教えてもらったことはある程度消化できて、いい成績をとることができていたのですから

正解がわからないことは許せなかったのです。
ひどい批評は許せないのです。

作文をうまく書けている人は、自分の知らないことを知っていているんだ!!
だから、スラスラと作文を書けるんだ!!

こんな感覚はつい最近まで、頭のどこかに引っかかっていたようです。

でも、この感覚は間違いであるということをようやく理解できるようになりました。

作文は「感じたこと」ではなく、
「書きたいこと」、「主張したいこと」を書くことなんだと気づけました。

これが小さいころから私が言われ続けてきた、
「作文をかけないということは、物事を考えていないことだ」
の本当の意味のようです。

そうすると、「考えたこと」=「主張したいこと」が
すっきりと腑に落ちます。

なぜそういう風に考えることができるようになったのかはまた・・・・