沖縄から東京へ、実家ごと移すことになった去年の今頃、大掃除をしていました。
30年以上続いた実家の閉めた食堂と、その隣の事務所っぽいところを改装して私は、猫を家族として一人で住んでいました。
家族はみんな東京にいたので。
そこを大掃除していたんですね。
店舗だから、ガラス張りが多くて、家らしくするのに大分苦労しながら住んでいました。
いろんなタイプのヒューマンが、歩いてたり小学生の雨宿り声が聞こえたり。酔っ払いが座り込んでいたり。
仕事帰りに車から降りると、近所の男の人に、店じゃなくて居住のスペースでお茶が飲みたい、と言われたり。
聞こえないフリして通りすぎてました。
ハサミを持って、年中半袖タンクトップで歩き回ってる人がいたり。
常に威嚇する野良猫みたいな顔で家の周りで過ごしてたなあ笑
それでも、離れられなかったのは、家族との思い出と当時8匹の猫と暮らしていたことを言い訳にしてたけれど。
もう動く気がないぐらい、疲れていただけなんだと思います。
あとはね。
近所に唯一優しいおばちゃんがいたんです。
そのおばちゃん、もう70近いのに旦那さんと三味線を持って漁にでるんです。
東日本大震災の時、真っ先にそのおばちゃんに連絡をとりました。
しばらく連絡が取れなくて、震えてたなあ。
帰ってきてから、津波の時の海の様子をはなしてくれて。
今までに見たことのない、海面だった。
と話てくれました。それ以上は聞けなかった。怖くてたまらなかった。
おばちゃんとおじちゃんのほうが何倍も怖かったろうなあ。
(私も、震災の前の晩、夜釣りをしていて明け方朝日がのぼって漁港のコンクリを眺めてて、潮位に違和感を感じたのを思い出しました。)
家族以外で、安息が気になって、いなくなることに恐怖を感じる唯一の血のつながらない、親戚よりも心のつながりを感じる人でしたからー。
「ふくちゃーん、はい。」
っておばちゃんが店に軽トラで乗り付けた、荷台に乗っているのは、ばかでかいーラーボックス。
中身はサメに頭を半分食べられた、私と同じくらいの大きさのセーイカ。
すごく興奮したのを覚えています。
こんな、おおきいのなら、どうにか商品にしてお金にしたほうがいいんじゃないわけ?
ってきくと
「これはよ、売り物にならんわけよ。きずだらけさーね、うり。」
といって胴体の激しく戦ったであろう傷だらけの部分を指差しました。
店のキッチンで一緒に皮をむいて捌いて、処理をしたなあ。
すごく興奮したなあ。
(自分が太刀打ちできないものにであうと、下手なデートより興奮するのは人だけじゃなくて、イカとかサメとかでもなのねえ。って自分のこと、少し大丈夫なのかな、と思った瞬間でもあった。)
小柄なおばちゃん、すごくテキパキびびる私をけしかけながら、いっしょにさばいてくれたっけ。
お金も受け取らないんだよねえ。。。また。。。
おばちゃん、元気かな。
おばちゃんに、そんなしょっちゅうあってたわけではないけれど、おばちゃんがいてくれるだけで沖縄で一人でくらしてても、他の街で暮らしてたころよりかはずっとマシだったんです。
ときどき、玄関先にくだものとか野菜とか、お礼に引っ提げてだけ帰ったりしたなあ。
そのおばちゃんがいてくれたから、過ごせてたのだと思う。
書いてることがタイトルと違うテーマになりつつあるけどw
おばちゃんに会いに行かなくちゃ。
私が綺麗で元気にしてると、手放しで褒めてくれて、構ってなくて荒んでいると、すごく悲しい顔でおだやかにガンガンダメ出ししてくれるところも好きだなあ。
(綺麗になんなきゃ、荒れてるなあ。。。褒めてもらいたい。ダイエットして、肌を整えてええ。髪の毛綺麗にして、お洋服も。。。女のはったりかましてる時の私が大好きと言ってくれたなあ・・・ごめんよおお、がんばるからあ、またああ。)
話を戻すねw
高校生の時、ニュージーランドに短期留学をしたことがあって。
当時今よりずっと男の子っぽかったんだけど。どこに魅力をかんじたのか、全く意味わかんないんだけど、今でも。
日本に帰ってからそのときのクラスメイトからラブレターをもらいました。
住所と、君の写真が欲しい、少しでもいいと思うなら返事をください。
日本に戻って高校の寮でその手紙を受け取った時、すごく戸惑ったけど返事くらいはしたほうがいいかな。でも顔覚えてないや。。。誰なのかな。。。
と思ったまま、忘れてたんですよ。
その手紙が、その実家を大掃除したときにでてきて。
I have a crush on you.
(君に夢中だ。)
って書いてあって。
当時、言葉のコアイメージとか全く興味なかったんです。(crush=潰れるとしか認識してなかった。英語が大嫌いだった。というより、受験のためにする英語の勉強が死ぬほど嫌いだった。)
コアイメージがなんなのか寝起きのとっちらかった、私の説明より非常にスマートなこのリンク先みてみて。