Yahoo! ニュースで土浦の8人殺傷の事件にとてもイヤな気分になる。そしたら今日は、小6が飛び降り自殺、岡山では18才が人を線路に突き落とす、となんかもう散々なことになっていて、あと数ヵ月もすれば本屋には「なぜ若者は人と自分を殺すのか」みたいな新書が並ぶのかしらと、不謹慎でバカバカしいことばかり考えてみた。まじめに考えても分からないどころか、アタマが変になりそうだからだ。
昨日フィンランドのアナと話してたときに、たまたまアメリカの銃乱射事件の話になった。事件自体は恐ろしいけれど、事件を引き起こすまでの彼らが、どんな気持ちで生きてきたのかを考えるともっと恐ろしい、とアナは言った。ぼくは事件自体の方が、自分及び大切な人たちが巻き込まれる可能性がある分、彼らの気持ちや考えなんかよりずっと恐ろしいと思うのだけど、確かにそういった若者の気持ちにはすごく痛いものがありそうだ。
日本でも同じようなことが起こっていると言うと、フィンランドにもそういう事例があったとか。先進国とされるどこかしこで、猟奇的な殺人事件は増えているような気がする。あ、でもヨーロッパではあまり聞かない、か。こういう現象に対して、心理学的なアプローチでは、彼らの精神面の発達段階や、アイデンティティの構造に原因を探るのだろうか。一方で、社会学のアプローチなら、原因を社会構造に求めることになるのだろうなと。家庭の役割が変わっているとか、人付き合いのスタイルが、とか(貧困な発送が無知を晒しているようで恥ずかしい)。
ふと思い出すのは、学部時代に読んだデュルケムの自殺論。社会構造が個人の行動に影響を与えるのだと言うことを、自殺と言う個人的な行動の統計を使って論じたやつ。コミュニティの宗教観だとかその他諸々と、自殺の件数だったか自殺が発生する確率の関連を発見していた。
デュルケムが、社会構造の崩壊が個人の不適切な行動につながるとして調べたのが自殺で、今起こっているのは他殺だというのは皮肉な気もするけど。ここで紹介されていた概念の1つがアノミー。社会的非連帯とか訳されていたかしら。周囲とのかかわりが希薄になっている状態のことで、こうなると人は自殺に走りやすいとデュルケムは言ってた気がする。協会に拠りどころを求めるカソリックよりも、個人レベルでの聖書との対話を重視するプロテスタントに自殺が多いことなどを挙げていた。
今の日本での生活を考えるに、この概念はとても当てはまりやすいのだろうなと。人付き合いの希薄化、バーチャルな関係の増加、こうありたいというモデルの欠如、とか。また、不幸なことには連帯しなくても食っていけるんだよなぁ・・・親の収入で。そして心理面では、マズローのいう安定欲求は満たされつつ、帰属欲求を満たす術がなかったりしてるのかな、それとも承認欲求を満たすための間違った行動なのかしら。
別の観点で言えば、社会的なディスコースというか、暗黙のうちに共有されてる思想のトレンドが、2000年頃の「自分探し」から、「自分作り」にシフトしてきたとぼくは勝手に思っているのだけど、やっぱりここから脱落してる人って多く存在しているんじゃないかしら。
自由意志の強制(あなたは結局何がしたい人なの?)というのを卒論書いてたときにちょっと述べたんだけど、その傾向は強まっていると思う。一方で、自由な選択を実現していく道のりはけっこう険しいのだよな。険しいのは当たり前なんだけど、それをサポートできる体制がないというか。自分の自由な意思を語る、言葉にする。なおかつそれはオリジナルでオンリーワンじゃなきゃいけない。そのくせ、オリジナルすぎると、前例を聞かれたり。
はるか昔に卒論に書いたこととリンクする。こういった「強制される自由意志」・「自分探し」・「自分作り」・「オンリーワン信仰」なんかが結果として、個人認識の失敗(すてきな自分のストーリーを構築できない)を引き起こしてるんじゃないかしら、と。
あー。また長くなった。感情としては、土浦の件や岡山の件、まるで関係ない人の生活を奪う犯人に怒りを覚える。また、12才やそこらの子供が自殺に及ぶと言うのは、両親や周囲の気持ちを考えれば居た堪れない。必要なのは原因の追求か?それとも出たとこ勝負の解決策?
うーん。