木を見て森を見ず、とはよく言ったもので。
例えば経営の勉強がしたいとする。
>じゃあ、経営のどの分野がやりたいの。
イロイロ重要だと思うんですけど、ええと、HRかなぁ。
>HRの何について研究したいの。
人をどう活かすかってコトなんですが…。
>それじゃあ広すぎるわ。
強いて言えばモチベーション論ですかね。
>モチベーションっても広いね。どの国どの時代どの組織を扱うの。
・・・。
・・・といった感じで、1つだったはずのものを細分化している間に、
元の興味とは随分と離れたものになっていくような。
ぼくが言いたいのは自分自身が広い領域を扱うことのできないもどかしさではなく、この細分化に潜む罠のこと。P. Sengeのthe Fifth Disciplineの書き出しに、現代の問題解決というのは、ばらばらになった鏡の破片を寄せ集め、
元通りの反射を取り戻そうとするようだ、みたいなことが書いてある。至って、言い得て妙。
特に個人的には、経営学、開発学など実践が伴ってこそ意味のある学問に於いて、
必要以上の細分化と、その結果の全体像の欠落というのが問題なんじゃないかと。例えば組織論、会計論、戦略論をやっている人間のうちどれだけが、では経営トップとして企業を強くしなければならないという立場になったときに、その知識をほんとに生かすことができるのか、と疑問に思うわけで。元々は、企業経営がどうあるべきかという1つの問いに対しての研究であったものが、分析されて細分化されている間に、元来の目的には決してたどり着けないものになってるのじゃないかしら。
細分化された部分についてすら分からないことが多いのに、全体を述べることができるわけ無いでしょう、と言うのが反論だと思う。しかし、この主張って言うのは、部分の理解の延長上に全体の理解が存在するという前提に立っているわけで。上のセンゲの例を借りるなら、ばらばらになった鏡の破片の1片ずつの大きさ、角度、表面の傷つき具合を調べていったところで、もとの鏡にはならないだろうなぁと。そもそも細分化された部分の追及は、全体の理解につながらないのかも。
大雑把に砕いてしまえば、会計とファイナンスとマーケティングとHRとストラテジーと・・・についてそれぞれ順番に10年ずつ研究に没頭したとして企業経営ができるようになるのかというと、きっとそうじゃねえだろう、という話。
分解は必要だと思うのね。でなきゃ、どこから何に手をつけて良いのかもわかんないから。一方で、分解するときにはそれが全体とどうつながってるのかを忘れちゃダメなわけで。この部分と全体の関係を考えるというのがシステムシンキングと呼ばれる話なわけで。
ふぅむ。