政宗公の築いた仙台城へと登城する道すがら。
大橋を渡って広瀬川を前に、左手に片倉小十郎の屋敷跡がある辺りに、追廻という地区がある。
かつては住宅地が広がっていたが、住民は市政策により移転となり、今は公園化の土地整備が進められている。
その追廻は、満州からの引揚者や仙台空襲の被災者が集められた地区だった。
仙台市中心部のすぐそばに、汗と涙をなめながら食いしばって生きた満蒙開拓団の足跡(そくせき)があったのだ。
満蒙開拓団は、関東軍とは違い民間人である。
その民間人も戦闘にまきこまれ、命からがら逃げて帰国できた人もいるが、何十万もの大勢の開拓民のうち、帰国できたのは半数以下という。
当時、満州国の発達とソ連牽制などの意向で、中国に日本軍が駐留し、併せて国策として開拓団が送られていった。
しかし、中国にとっては自分たちの土地に日本軍が駐留し、我が物顔をされることに不満が募り、加えて開拓と称して土地が奪われると思い、反日の空気は高まっていよいよ戦闘が始まる。
反日派にとって開拓民も標的であった。
さらに、ソ連軍の侵攻により、開拓民は悲惨な事態に陥ってしまう。
戦闘の中、丸腰で恐怖に耐えながら必死に逃げる開拓民。
散り散りになる家族や仲間。
私の若い頃に、ようやく調査が始まって話題となった「中国残留孤児」も、こうした事態で生じた悲劇であった。
(1981~1999年訪日調査、2000年~現地日中共同調査と情報公開調査開始:厚生労働省/1995年NHK日中共同制作ドラマ「大地の子」放送)
殺された人もいれば自決した人もおり、軍人と共にシベリアで労働を強いられる人もいた。
その過酷な生活たるや、まともな食事もなく、極寒の中で極度の疲労に衰弱し、命を落とす人も多かったという。
震災前のことだが、私にシベリア抑留の話をしてくれた方は、こう言っていた。
「スープなんか、お湯の中にごみみたいに野菜のきれっぱしが浮いているだけだった。そんなのしか食えなかったんだ。」
この、開拓民の艱難辛苦は、国の思惑によって生じたものだ。
これに必死で耐え、何とか帰国できたのに、戦後も苦労続きであった。
それでも、中国人にとって開拓民は侵略者と同じだったのだろうと、相手の気持ちを思うことも忘れず、加害者としての意識も持って今に至る。
そんな人々の心情を思うと、私は胸が詰まる。
国籍に関わらず、どこの国の人々も、敬意や善意などの人道から外れてしまうのが戦争。
恐ろしく残酷で、勝ち負けなど関係無い、戦争は「正しくない」のだ。
開拓民は、幾度も、治政の名のもとに苦難を強いられながら、精一杯に生きてきた人々。
その歩みは、戦争と平和を考える道しるべと、私の目に映る。