孝勝寺は、4代藩主綱村公の生母、三沢初子の墓所であった。
また、綱村公の正室の仙姫や、2代藩主、忠宗公の正室である振姫の墓所も同じく孝勝寺だった。
今は、その初子等の墓所は、寺から少し離れた場所に残されている。
元禄頃の城下の地図を見ると、孝勝寺は、榴ヶ岡辺りまでの広大な敷地を持ったお寺。
古くは、「大仙寺」や「全勝寺」という名だったそうだが、振姫の院号が「孝勝院」であったので、振姫が葬られた後に、その息子の綱宗公によって寺の名も「孝勝寺」と改められたそう。
孝勝寺の五重塔は、当寺院の貫首の念願で、平成13年から建立が始まり、木材には青森ヒバを使用し、天井には清澄寺の御霊木が用いられて、平成15年に完成したという。
初層には、木像の日蓮聖人の像と曼茶羅が祀られ、四層目には本堂に安置されている仏舎利の半分を納め、五層目には立花貫首が書写した法華経八巻が納められているとのこと。
さて、この五重塔の隣には、釈迦堂がある。
この釈迦堂は、綱村公が、母である三沢初子の大事にしていた釈迦仏を祀り、母の冥福を祈って建てたのだそう。
釈迦堂は、当時から孝勝寺が管理を任されていたそうですが、元は榴ヶ岡にあったものが、考勝寺に移築された。
お堂内には、厨子が備わっており、その中にお釈迦様の像が安置されているという。
綱村公は、幼名が亀千代といい、幼くして家督を継ぎ、伊達騒動の渦中で波乱の少年期を過ごされた方。
初子は、その亀千代君を、懸命に守り支えてきた母であった。
歌舞伎『伽羅先代萩』には、幼君を守り育てる「政岡」という乳母がおり、幼君が毒殺されかかった時に、政岡の子が身代わりとなって幼君を守りぬくというという場面がある。
その政岡は、三沢初子をもとにしていると言われている。
釈迦堂を拝見しながら、綱村公が、その母の冥福を祈る思いも、慕う気持ちも、大変に深かったであろうと思われる。
藩の難 荒波越えた 母子の情