五月二十日  

 

春のイベントである、トマト〔ももたろう、フルティカ、甘っ子、イエローアイコ、リコピンなど)、きゅうり〔黒サンゴ)、ナスビ〔ステーキなす)、ゴーヤ、スティックセニョールなどの苗作りがようやくフィナーレとなり、本日から出荷〔仲良き人へのプレゼント)が始まった。ブログもようやく『森』を舞台に第三幕の始まりとなります。雪が溶け、春の開始から約一ヶ月半、森はどんどん新たな年を開始しています。細かな説明ははしょって、福寿草、イチゲ、フキノトウ、ヤチブキ、ザゼンソウ、タチツボスミレ、ミズバショウ、エゾエンゴサク、ニリンソウ、クルマバソウ、などが次々と花を咲かせています。もちろん、大樹たち、カツラ、シナノキ、ハリギリ、アオダモ、イタヤカエデ、オヒョウ、も新しい葉をいっぱいにつけています。オオカメノキもいち早く白い花を咲かせて自己顕示しています。花は後にして、どんどん繁りを優先している植物たちも無数にあります。子連れのエゾシカの家族も時にのんびり草を食んでいる光景に出会う幸運もあります。これからこんな森が現在在り、それがどれほどの『世界』なのかを何回かに分けてお知らせしようと思います。最初の数回では、『森の歴史』を辿ってみようと思います。それをよりよく表しているたよりがあります。著者の許可を得て転載します。

~~~~~~~            ~~~~~~~       ~~~~~~~

〜北国の便り〜

 

先人の努力で守られた野幌原始林  望田武司〔札幌市)

 

野幌森林公園のある江別市は札幌に隣接する一方、国内で3番目に長くて北海道では”母なる大河”と言われる石狩川の下流に接して交通の便良く、しかも平地であるため、未開の地だった時から注目されていた地域であったようだ。

 幕末、蝦夷地を6回も探検して、明治になって「蝦夷」の名前を「北海道」に変えた名付け親・松浦武四郎はこの地についてこう語っている。

【札幌を京都に見立てると、石狩川河口を大阪とし、札幌市内を流れる豊平川が石狩川に合流する地域、対雁〔ついしかり)、今の江別市は伏見にあたる。】

武四郎はこの地域の地勢を京都になぞらえて、ロシアの南下に備え、蝦夷地を治める場所は、当時箱館奉行所のあった北海道最南端の箱館ではなく、石狩原野の札幌に作るべきだと提言している。

 また、旧幕府軍が最後まで戦った箱館〔函館)戦争の大将で、敗れたもののその才能を惜しまれて処刑されずに敵方の明治新政府から救命された幕臣の榎本武揚は、その専門の舎密学〔化学)を生かして、北海道の鉱山調査にはいり、空知でいち早く高性能の石炭脈を発見したとき、石狩川で石炭を対雁にまで運び、それから小樽経由で本州に運んで殖産興業・富国強兵のエネルギー源にすべきだと、提言し、自ら対雁に広大な土地を取得して農場を作っている。この農場跡は今日江別発祥の地として整備され「榎本公園」として整備され、高い塔のてっぺんには馬に乗った榎本武揚の銅像が作られている。さらに明治新政府は、戊辰戦争の負け組の会津藩などの藩士の生活の場として、平時の時は農民、有事の際は軍人という屯田兵村を札幌に続いて江別にも作り、以降屯田兵村は石狩川を遡って旭川方面まで次々と作られる。それだけではない、イギリスに留学してウイスキー製造の技術を学び、日本で初めてのウイスキー、今日のニッカウイスキーを作ったマッサンこと竹鶴政孝は工場をスコットランドに似た冷涼で、水が豊富な江別に建設する趣意書を書いている。ただ、ウイスキーは製品になるまでには長期間樽に貯蔵しなければならず、この間の収入がゼロでは経営が成り立たないため、とりあえず、リンゴジュースでしのぐことになり、工場はリンゴの産地余市に作りそのままになっている。対雁と野幌は同じ江別市でも離れていて、野幌の方がより札幌市に近いが、このような立地に恵まれた野幌の森が、今日まで大都市の郊外に残っていることが、開拓がすすめられた北海道では、ある意味では驚きである。

 私は広い野幌森林公園を散策するたびに、もし森の樹がみな伐採されたら、野幌は人口100万人くらいの一大ベッドタウンになっていたのではないかと思うこともある。現に森林公園のすぐそばには、戦後北海道庁が作った大規模な大麻団地があり、札幌に勤務地を持つ人が大勢住んでいる。

 もともと「対雁」〔ついしかり)は「津石狩」と言われていた。「津・石狩」である。「津」というのは、海に面する海岸では波が来るので、漁船や千石船は係留できないため、河口に入った波の静かな窪みを「津」といい、そこに船が係留された。三重県の県庁所在地「津」は恐らく伊勢湾の波を避けるため河口のくぼ地に位置していたのだろう。

「津石狩」も石狩川の河口に船が係留できる窪みという意味で、「津」は後に整備されて港になることが多い。

 余談だが、そのような「津」には通常波は来ない。ところが地震が起きて河口にまで波が遡ってきた。「津」まで波が来た、ということで「津波」という言葉が生まれ、地震常襲国・日本の言葉「津波」が世界の万国共通語となった。英語でもドイツ語でもフランス語でも「tsunami」である。それが札幌では、その後「対雁」と言われるようになって「津石狩」は過去の地名となっている。  

 

 〔第一回、了)