第1回FUKICOS OPERARIAに関して by 川村恭子 | 【渡辺蕗子Offcialブログfukicoko

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「第1回FUKICOS OPERARIA」 by 川村恭子

 

ピアノの前に座り、一つ息をのむ。それから、ゆっくりと鍵盤に指が置かれる。
『FUKICOS OPERARIA』は、シューベルトの即興曲、第2番変ホ長調で始まった。
キーに指が触れる。渡辺蕗子という人の心の揺らぎが鍵盤にのる。鍵盤はピアノ線を震わせ、そこからこぼれ落ちた音は、私たちの心を震わす。静寂な湖水に投げられた石のように、渡辺蕗子を中心に、時には激しく、あるいは緻密に、投げ出された音たちは、ゆったりと波紋を広げていくのである。そして渋谷ジャンジャンという、空間いっぱいに、この「震え」が広がっていく。
それから、ここにいる人間の心の底から肌のきめの一つ一つまで、すっぽりと包みこんでしまう。そうして気がつくと、心の中で音の中を泳ぐようにして、ここにいる。そのゆらゆらと揺れる中で、遠い子供の頃みた風景や、いつも夢の中に出てくる場所、ここ何年も思い出すことのなかった、一番最初に好きになった人のこと。そういう、こまやか記憶が、しゃぼんのようにスルスルと吹き出してきては、音の珠とともに、ぱちんと弾けて消えていくのだ。

 

 『FUKICOS OPERARIA』は、まだこれといった形を持っていないコンサートである。渡辺蕗子のピアノの弾き語りがある。そして幾人かの『歌姫』の歌と、一人のスペシャルゲストの歌が登場する。演奏される曲もシューベルトであったり、歌姫のために書いた曲であったり、カヴァーであったりする。
それぞれのゲストもまた、全員がまったく違うタイプである。
初めに登場した覚和歌子は、伸びやかな声で歌う。
ネヌファ・ベゴニーは、映画『ピンクフラミンゴ』に登場する巨漢、ディヴァインさながらである。と言っても、なりたい、なりきりたい、という中途半端なものではなくて、まったく「そのもの」。あまりに嘘がないので驚異である。
そして、黒一点レッピッシュのMAGUMI。休憩をはさみ第2部レピッシュのカヴァーを渡辺蕗子が歌い、紹介し登場。マイペースに、この場所に充満する空気を、少しづつ自分の色に染めていく。レイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』風に、たっぷりとためこんだ『OH DARLING』(レノン・マッカートニー)から、はては『オ・ソレ・ミオ』まで飛び出してくる。

コンサート自体は不慣れなせいもあって。歌や演奏が途中で止まることもある。あるいは最初から歌いなおされることもある。舞台装置などもこれと言って用意されていない。ポツンとグランドピアノがあるだけである。
 けれども不思議なことに何もないこの場所で『歌の向こうに何かを見てしまう』
舞台装置に懲りすぎて装飾過多になった舞台はいつでも、どこでもお目にかかる。しかしここでは歌やピアノの音の響きたちが、真っ暗な背景に絵や風景を求める。そこの中から降り注ぐ歌たちが幻想を抱いてウズウズしているのだ。その歌たちの思いが、聞き手に思い思いの絵空事を想像させてしまう。
 それは多分に、渡辺蕗子という人が、ショコラータのような、音楽だけではない音楽を続けていたためかもしれない。ピアノや歌詞の隙間に、通常の歌うたいたちとは違う空間を持っているからではないだろうか。音によって喚起される幻想は、いつでも空気の震えの中に潜んでいるのだから。
 これから『FUKICOS OPERARIA』はどうなっていくのだろう。どのように増殖して、どのように形を変えるのか。それはまだ誰にもわからない。ひょっとすると作り手である渡辺蕗子自信も分からないのかもしれない。ただ一ついえることは、ほかのどこにもない、たったひとつの空間であることは間違いない。なぜならそれを彼女の音楽が欲しているからである。
 

 

蛇足ながら。オープニングは意表をついたシューベルトであったけれども個人的にシューベルトというと、なぜかアマデウス四重奏団の演奏する『死と乙女』を好んで聞く。ただでさえドラマチックなシューベルトをアマデウス四重奏団は、さらに芝居がかりに大甘の演奏であるから、あまり評価しないクラシックファンも多いのではないかと思うのだが、なぜか私はこの1枚が好きなのだ。

 

 かの小林秀雄は、かつて『モーツァルト』の中で「モーツァルトの悲しみは疾走する」と言った。小林秀雄の言う、悲しみを疾走するモーツァルトを奏でたのはアマデウス四重奏団であった。
 
 『FUKICOS OPERARIA』を小林流に言うなら、「渡辺蕗子の音には、幻想が住んでいる」となるのだろうか。


1994年 春 川村恭子