今回は、「邪教」について書かせて頂きたいと思う。

 

「邪教」とは、辞書によると「誤った教義を持ち、世に害毒を流す宗教」とある。

ただ「邪教」は「宗教」とは言えず、正確には「宗教を名乗っていい加減な教えを説き、世に害毒を流す団体」と言うべきだが、宗教法人である以上、世間から宗教として認識されてしまうのは仕方ないことである。

 

財産も命も失ってしまった斎藤主人

 

初代様はかつて、大の宗教嫌いでいらっしゃったことは前にも書かせて頂いたとおりだが、その理由は、数々の邪教を身近に見てこられたからである。


初代様は13歳のときに、深川佐賀町にある雑穀屋の斎藤商店に奉公に入られた。

そして初代様が19歳のとき、斎藤主人の長男と次男が難病になり、気をもんでいたところに、ある宗教のお爺さんとお婆さんが入り込み、おかみさんが熱心な信者となった。


その宗教の人たちは、毎日来ては昼飯を食べ、「真心を表せ」と言っては、家にあるいろいろな物を「そんなゴミを置いといては病気は治らないから神様にあげろ」と言って、あげさせた。

そのときのことを、初代様は「由来」の中で次のように語られている。
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私がその信仰に大反対したところ、それらの人が、この小僧がいたのでは病気は治らないと言い出したので、私は主人に退店すると言いましたところ、主人の方が私をなぐさめて、無事におさまったのであります。
その後、またその人たちが来たので、
『私がいては病気は治らないというのはどういうわけだ。子供に何の罪がある。私に罰をあてるのが本当だろう。罰があたるならお目にかかろうじゃないか、さあ即座にあててみろ』
と、食ってかかりましたところ、困ったのはおかみさんです。
「お前がそういう乱暴なことを言うのでは、うちの子供の病気はとても治らない」
と言い出しましたので、私は一生懸命に働く気がしなくなり、また主人に『おひまをください』と申しましたが、主人は「そんなこと気にしなくてもよい」と言って承知しませんでした。

斎藤の親戚中がその信仰を反対しだしたのでありますが、やめるどころか、今度は主人も一生懸命にやりだしてしまい、ついには落ちぶれてしまい、後年、私の店で手伝ってもらっているうち、東京駅で転んでけがをしました。
その時、すぐ慶応病院、その他で診てもらいましたところ、どこへ行っても手術すればすぐ治ると言われたのでありますが、宗教の方で承知せず、本部へ行けば治ると言われ、汽車に乗って何日もかかって行きましたが、病状はだんだん悪化して一年足らずで死んでしまったのです。

(「由来」より)

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その後、三男も病気になり入院が必要だったが、またも宗教のほうで承知しない。

とうとう手遅れとなって死んでしまい、おかみさんは独り身となり、人生のどん底に落とされてしまった。

 

このお話は100年以上も前の事である。

斎藤主人は、雑穀の相場師たちを相手にしていた商人で、そう簡単にダマされるような人ではなかったはずなのに、邪教にダマされ、財産だけでなく、親子とも命まで失ってしまった。

息子の難病を治したい一心で、藁にもすがる思いだったに違いない。

その気持ちは痛いほど分かる。

そのように弱っている人の心につけこんで私腹を肥やし、あとは信者がどうなってもお構いなしという邪教は、昔から存在していたのである。


良い宗教かどうかの判断基準


目に見えない世界のことは普通の人には分からないから、何とでも言える。

「不浄なお金を全部献金すれば、あなたは浄化されて救われますよ」

といったいい加減な話でも、心が弱っている人に自信を持って言えば、あるいは寄り添うように話せば、「そんなものか」と思ってしまう。

また道徳的な言葉を上手く並べれば、誰でもそれらしい事は言えるから、「教え」だけで良い宗教かどうかの判断はできない。


したがって良い宗教かどうかは、「何を説いているか」よりも、

「実際に救われて、幸せになったかどうか」

で判断すべきなのだが、しかしそれは体験してみないと分からない。


よって宗教を求める場合、「ここなら良いだろう」と思う宗教があれば入ってみて、救われたら続け、救われなければやめれば良い、という事になるが、そうなると今度は、「やめたら地獄へ落ちる」と脅す宗教がある。

救われない上に、やめれば地獄に落ちるなら、宗教などに入らない方がいい。

だから信仰心はあっても、宗教を敬遠する人がいるのは致し方ない事と言える。


邪教問題と宗教改革

初代様は邪教について、次の通りお諭し下さっている。

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世の中の人々は、神の救いにぶつかった経験が更にないから、いくら信じようとしても、うわべだけで心から信じることは絶対に出来るものではなく、そこに信者は逃げようとする。

一方は逃すまいというトラブルが生じるのであって、現在生きている人間を救うことが出来ないから、そこで死んでから天国へ行けるの、極楽へ行けるなどとダマし、途中でやめると子供が車にひかれて片輪になるの、死んでしまうの、家が火事になる等とおどかして、因縁を除滅する立場の宗教家が、逆に因縁をつけておどかすという、そこらのチンピラにおとらないやり方をしているのであります。

そのようにダマされた人達が本教に次々と入信しており、ここに初めて目がさめまして、今まで長年やって来た宗教に、さんざん、ダマされてバカをみましたと、口々に言っているのが、私の耳にまではいっておりますが、これを思えば宗教団体にはいった大衆は、インチキ宗教団体の拡大する道具に使われて金や物をしぼられた人達が、本教に入信して冷静を取り戻したために、今までの宗教は救いは一つもなく、逆にその宗教を自分が救っていたのであったということに気がつくのであります。

その点について、天心大霊神様は、大衆が邪教に惑わされたり、あるいは神の存在を見たことのない人達を、非常になげかわしく思し召されまして、私に「宗教改革によって人生に新生命を与えよ」と仰せられまして、私に責任をお持たせなされたのであります。
(初代様お諭し「神界から幸福の道を照らす救いの光輝く」より)
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とお諭し下さっている。

「宗教改革によって人生に新生命を与えよ」との御神示は、邪教に惑わされたり、神様の御存在を見出だせずにいる人々への神様の御慈愛であることを、このお諭しを通して知ることができる。

 

正道邪道を決めるもの

 

そのように初代様は邪教に対して厳しかったが、ご自身に対する自戒のお言葉もまた厳しかった。

初代様は、

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神様の御威力を教祖が笠に着て、生き神様になりすまして威張りちらかし、お高い所から弱い信者を見下す事は朝飯前であり、信者が別に別荘を造ると言わなくとも、教祖の方から、「お前等は俺に別荘位造ったとて罰は当らないぞ、造れ。」と言えば必ず造らせることが出来るでしょう。

けれ共その様なズノボセて増長した根性は、神様のいないそこらの宗教の御教祖様自身が、恰も生き神様の如くになりすました態度であって、況んや恐れ多くも活ける天心大霊神様が、そんな卑しいことを許す筈もなく、何故か有頂天になり増長したときには、神様はあきれかえって御昇天なされてしまい、喜ぶものは悪魔であり、待ってましたとばかりに悪魔が神様と入れ代って悪魔の支配を受け、牢獄などで悲惨な最後を遂げているのは、数々の宗教の前例を見ても、皆さんは御存知の筈であります。
天心様はその様な最後を遂げた者共は地獄へ廻されるのであるぞよ、とずっと前の佐賀町時代に篤と戒められているのであります。

(初代様お諭し「神様御降臨の聖地大越に御聖堂建設と遺跡の保存計画について 声明書」より)
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と、大変厳しく説かれていらっしゃる。

この初代様のお諭しは、

「神様が御降臨あそばされている宗教であっても、正道を歩むか、邪道を歩むかは、人間側によって決まる」

ということを教えてくださっている。

このことは「旧約聖書」に記されたイスラエル民族の歴史を通しても明らかである。

 

そこで次回は、「邪教」に惑わされていったイスラエル民族の歴史について書かせて頂きたいと思う。