天心聖教の5日の神の聖旨に、
「神は数多の人に現われて我れの師となり教え給う」
と諭されている。
信仰生活の中で、人の言葉や、周りに起こるさまざまな出来事から、

「神様が教えてくださった」と思うことがある。

しかし、初代様はそれだけでなく、神様の御姿を拝し、直接御告げをお受けになられる特別なお方である。
まれに、信徒の中にも神様の御姿を拝したり、御声をお聞きした人もいるが、それは神様の御意志によってなされたことであって、信仰熱心だから御声が聞こえた、という訳ではない。

今回書かせていただく、佐藤安孝氏も信仰にかつて関係のない人だった。


そのように選ばれた人たちに、神様が御言葉をもって御告げになられる場面が、天心聖教の「由来」にも、また「聖書」にも記されているが、そのあり方は一様ではない。
神様の御姿を拝して御告げを賜る場合もあれば、御声だけが聞こえてくる場合もある。

その他に、夢で神様の御姿を拝したり、御声をお聞きしたり、幻を見る場合などもある。
また、神様が人に乗り移られ、その人の口を通して、あるいはその人の振る舞いを通して、御心を御示しになられることもあり、それを「神懸かり」と言う。

 

神様の御姿を拝したり御声をお聞きするなど、神様と直接の接点を持つこと自体広い意味では神懸かりと言えるが、今回は人に乗り移る場合の神懸かりのことである。

天心聖教の「由来」にも、また「聖書」にも、神懸かりの場面が時々出てくるが、今回は天心聖教の「由来」から、佐藤安孝氏が湯河原の旅館で神懸かりになった場面について書かせていただきたい。

佐藤安孝氏の神懸かり/湯河原の旅館にて

昭和10年1月18日の夕方、初代様への御再臨の時、神様は佐藤安孝氏を通して、
「汝らに財宝を授けつかわすが故、晴一の生まれた二月十一日には、必ず祭り事をせよ」、と初代様に御命令あそばされ、大豆の先物相場を予言された。
このときが、佐藤安孝氏の最初の神懸かりである。

それによって初代様は大儲けをして貧乏のどん底から救われたが、心から信仰する気持ちにならなかった。
すると4月に、佐藤氏が再び神懸かりになったのである。
場所は湯河原の旅館。そこで商談と宴会を兼ねた同業者の集会があり、その集会の開会前のことだった。

その時の様子が「由来」に記されている。
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三月には、お互いにしこたま儲かって、資金もできたのでありますが、さて、叶わぬ時の神頼みで、叶ってしまうと神の方にご用がなくなってしまう方でありました。
同年四月には同業者がそろってお花見かたがた、湯河原で集会を開くことになり、伊豆屋旅館に投宿することにいたしました。
ところが開会前に、四か月ぶりでまたもや佐藤氏が気狂いのようになり、
『汝はなぜ信仰する心になれぬか』
と、私を追って暴れ出し、なかなかおさまらないので、同宿の他の団体客から、
「静かにしてくれい」
と、再三注意がありましたが、こちらとしても静める方法がなく、一同はらはらするばかりです。
佐藤氏は一同の心配も何のその、ますます荒れ狂って、押さえようとする人たちをはねのけながら私を追いまわし、手がつけられません。
とうとう先方の客は、どなりこんでくる。
ところがこちらには、日頃我々雑穀商をお得意とする、一ノ瀬回漕店の若い者がお供をして、世話役で来ていたものですから、売り言葉に買い言葉。
「何だい。別に酒に酔っぱらっているわけじゃなし、気狂いなんだから仕方がないじゃないか」
「何い!気狂いだろうが、自分たちのことは自分たちで始末をつけろ」
と言った按配で、何を!と、ついに大立ち回りとなり、双方こぶを出すやら、鼻血を出すやら、たいへんな騒ぎになってしまいました。

(「由来」より)
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その後、喧嘩は初代様が先方の部屋に行っておさめられたが、佐藤氏の気狂いは一向におさまらない。
みなで佐藤氏を縛ろうするが、力があってなかなか自由にならず、ようやく手足を縛ることができたものの、不思議なことに、縛られたまま、横っ飛びになって初代様を追いかけてきた。

初代様は「由来」の映画でも、このときの様子を語られている。
佐藤氏は温泉の中で突然神懸かりになり、ふんどしも締めていなかったそうだ。
その姿のまま、「その方に福徳を授けてやったのになぜ信仰せんか。ひねり殺す」と言いながら、乱暴するような格好をして初代様を追いかけ回した、というのだから尋常ではない。
それによって宴会はメチャクチャになってしまった。

そのことを聞いた菊地卯之助氏は、初代様に言った。
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あなたはご神縁の深い方で、神様は佐藤さんの体を以て、あれほどまでに現しておられるのであるから、あなたが信仰せぬと、末路が気づかわれるから、ぜひ信仰なすった方がよい。(「由来」より)
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この菊地卯之助氏の熱心な勧めが動機となって、初代様の信仰が本格的に始まったのである。

この時の佐藤氏の振る舞いは、事情が分からない人には気狂いにしか見えない。
分かっていたとしても、「よりによってこんな時に・・・」、「何もそこまでしなくても・・・」と、人間の理性ではそう思うだろう。
しかし神懸かりの人の言動は、神様がなさっておられる事なので、人間の常識や道徳の範疇では、とらえることが出来ないのである。

神懸かりのふりは神様に対する妨害行為

もちろん、そのような「神懸かり」は世の中にめったにあることではない。
世間には「神懸かり」のふりをして人をだまし、私腹を肥している人たちもいる。

そのような人について初代様は、
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そういう人は、さも神様と話ができるような振りをして、人に信じさせようとするもので、インチキ行者にでもなって、それで生活しようとする野心のある者のやることです。ですから、風邪一つ治せないのは当然のことです。そういう者が私の前に出ると、ふるえあがってしまって、何一つできるものではありません。
(中略)
恐ろしいことは、こんなことをする人を、神界の言葉では「越法を使う」と言いますが、この越法とは、さも神の御啓示であるかのように見せかけて、実は全くでたらめであるため一つとして当たらないから、本当の御告げに対しては著しく妨害になることを言います。このような越法を使う者は、末路がひどい野たれ死にをすることになっております。
(初代様お諭し「救いの道をまっとうして」より)
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と説かれている。

神懸かりのふりは、神様に対する著しい妨害行為であり、大罪なのだ。

本当の神業に私心の入り込む余地はない

さて、昭和26年に天心聖教が開教し、神様は初代様を救いの使者として本格的に御使いになられた。
どのように神様が初代様を御使いになられたのか、その一部を初代様のお諭しから垣間見ることができる。
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活ける大神様の使命がくだっている真の教祖というものは、神が絶対に私心を起こさせないところに辛いところがある。腹にも無いことを相手によって神にベラベラしゃべらせられるのであるから、いかんとも致し方がない。
小学生には小学生、大学生には大学生、事業家には事業家、政治家には政治家、また哀れな者とか悪人とかやくざには、やくざの説き方を神はさせるものである。
よって信者には良き父ともなり、また相手が相手なら恐ろしいゴロツキのようにもならせられてしまう。これが本当の神業であるということを得心して頂きたい。

(「訴訟事に関する神の威力(一)」より)
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「活ける大神様の使命がくだっている真の教祖というものは、神が絶対に私心を起こさせない」と初代様は説かれている。

佐藤安孝氏の場合も、「私心」が入り込む余地など無いことが、その言動から伺える。

神懸かりになったことによって、何か目に見えて得をしたわけではない。

得するどころか、皆に気狂い扱いされただけである。
しかしそんなことは意に介さず、神様からの使命を果たし終えると、何事もなかったかのように元に戻ってしまった。

神様が佐藤安孝氏を御使いになられた理由

この佐藤安孝氏を神様が御使いになられた理由について、昭和27年11月11日に初代様に降された御神示の中で次のとおり仰せになられている。
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吾が今日救いの光線を放射するについて、人類如きは始末の悪いところがある。
もしその時(昭和十年一月十八日御再臨の時)島田家の者を使った場合は、今日『喜びの人生』に発表しても、皆コシラエごとだろうと、多くの人が、マユ毛へツバつける疑心はげしく、吾救わんとしても、救いを受けぬ者が至って多い故、全然信仰に嘗て関係のない佐藤を引き出したるものぞ。

(「由来」より)
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神様は、人間の「疑心」という、「始末の悪いところ」を御配慮なされて、将来の救いのために、信仰にかつて関係のない、佐藤氏を御使いになられたのである。
このことより、神様は、広大無辺な御計画のもとに、その時々の状況に応じて、必要な人たちを御使いになっておられることが分かる。
 

そして神様の御計画は、我々人間の知識・常識・道徳観念などでは、計り知ることの出来ない方法をもって遂行されることがあることを、聖書からも、天心聖教の由来からも伺い知ることができるのである。

長くなってしまうので今回はここで終わり、次回も「神懸かり」について書かせていただきたいと思う。