前回は、「歴史をどう捉えるか」が一つのテーマだったが、今回は、「自分の過去をどう捉えるか」ということについて、天心聖教の教えをもとに、書かせていただきたいと思う。

「過去は消えてなきものなり」とは?

1日の「神の聖旨」に、
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今日一日感謝して生きること
今日一日生かされて居る幸福を見出し、

常に受けている幸福を悟れば、悟ると同時に喜びの人生が営まれる。
過去は消えてなきものなり、今より神が支配する。

過ぎ去った事を苦にせず先を楽しめ。
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と教えられている。

この聖旨の「過去は消えてなきものなり」とはどういう意味だろうか?
「過去は消えてなきものだから、過去を気にせずに生きなさい」、という意味なのか。

もしそうなら、「自分が何をしても、全く気にせず生きている人は幸せ」、ということになる。
そんなはずはない。
では、どういう意味なのか?

第二世教主島田晴行先生は、「過去は消えてなきものなり」の意味について、

次の通りお諭しくださっている。
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御神示を中心に初代様はすべてを説かれていらっしゃるわけでありますから、御神示でも『過去の体験をよき試練として』というお諭しがございます。
それで、ここでは「過去は消えてなきものなり。今より神が支配する。過ぎ去ったことを苦にせず先を楽しめ」ということですね。
そうすると、浅はかな人は過去は消えてなきものなりで終わってしまって、そして自分のちょんぼを帳消しにしてしまうのです。
これは、そういう意味ではないのです。
聖旨の第一節にあるのですから、『過去は消えてなきものなり』というのは、今までの考え方を全部捨てろということなのです。自分自身の問題です。
だから御神示にも『過去の体験を良き試練として』と、自分の考え、自分の知恵でやったことが幸福につながっていれば、これを過去の試練とせよということはないでしょう。
その逆だから、そうした体験を過去の試練として生かせということになるわけでしょう。

その過去の試練を生かせというのは、自分を知れということですよ。
それは、汝の考えで行ったことであろう、汝の浅はかな知恵で行ったことであろう、それが苦しみを生み出したのだから、それを試練とせよということは、「それを捨ててしまえ」「自分の浅知恵を全部捨ててしまえ」、これが過去は消えてなきものなりなのです。
そして『今より神が支配する』。
神様がご支配くださるのだから、だからその神様のおっしゃるとおりに生きていけということなのです。

(島田晴行先生ご訓話「神の御心」より)
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消えて無きものにするのは、過去そのものではなく、

不幸を招いてしまった「今までの考え方なのだ。

島田晴行先生が、このご訓話の冒頭で説かれている御神示は、
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過ぎ去った事を苦にせず、大切な事は今である。
今の今が宗教の始まりであると心得よ。
過去の試練をよき体験として生かし、新たに磨き直されよ。
わが守護するものは汝(初代様のこと)のみならず、信者総てである。
(後略)
(「由来」より)
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との御神示の一節である。

「過去」に対する神様の御心は、
「過去を苦にせず、そして、過去の試練を良き体験として生かすこと」

なのである。

「過去の試練」を「良き体験」とするには、その体験を振り返ってみなければならない。

感謝と懺悔して新たに生きる

28日の神の聖旨の中に、次の通り教えられている。
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毎日感謝と懺悔して新たに生きよ。
感謝の心は恩に報い、徳に謝するために積極的善を働く力となる。
懺悔は反省に役立ち、反省は悪に進む己が心を喰いとめる力となる。

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この聖旨について、初代様は次の通り説かれている。
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毎日感謝と懺悔して新たに生きよ
という教えがありますが、人は反省と感謝の心を養うことが幸福へのもっとも早道でありまして、また反省の心は自分のよごれを洗い清めるということでありまして、再び失敗を招かないことに役立ち、また反省は成功や幸福の扉を開く鍵のようなものですから、本年は、朝目がさめましたなら、昨日のことについて感謝と反省を致しまして新たに生きるという、これを毎日繰り返して行くことが、人間生活の主であるということを忘れてはならないのであります。

(初代様お諭し「感謝と反省」より)
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過去の間違った考え方を捨て、「毎日を新たに生きる」ためには、

「感謝・懺悔・反省」が必要であり、それを毎日繰り返して行くことが人間生活の主である。

と説かれている。


懺悔について

「懺悔」とは、過ちを神様にお詫び申し上げ、不徳の罪をお許し願うことである。

「反省」とは、自己を省み、考えや行いを改めることである。

「懺悔」と言うと、「罪深い人がするもの」、というイメージを持たれる方もいるかも知れないが、決してそうではない。
この世に罪の無い人はなく、全く罪を犯さずにこの世を生きてゆくことは不可能である。
日々生きていく中で、誰でも、知るや知らずや犯してしまう罪があり、それを懺悔できたという事は、心が清くなった証拠なのだ。

懺悔できずに、罪を累積させていく人のほうがむしろ、罪深い人と言えるだろう。

また、我々信仰者は日々、神様から御神助を賜り、感謝して生きている。
しかしよく考えてみれば、自分の周りに起こる諸問題は、自分の至らなさが原因で起こる場合が多い。
自分の至らなさによって起こった問題でも、神様は御慈愛深く御加護くださっている。

それは御神助であると同時に、神様に御心労をおかけしていることでもあり、そのことからも、「感謝」と「懺悔」は全く別のものではないことが分かる。

 

本心からの「懺悔」は、「感謝」に変わることを、私は体験を通して知っている。
「神様どうか御許しください。私は神様の御心から離れ、過ちを犯しておりました。このことを改め、教訓として磨き直して参ります。何とぞ御導きください」

と、本心から神様に懺悔する心になった時、今まで賜った御神助の大きさに、はじめて気がつくのである。
「至らない私だったが、神様はこのように御導きくださり、大事にいたる前に気がつかせてくださった。お陰様で目が覚めた。これからは、このような過ちを犯さずに生きていける。なんとありがたい事だろう」

と、懺悔とともに、深い感謝が自然と湧いてくる。

そして、清く冷静な心で、正しい反省もできるようになる。


自己反省と修行

「自己反省」について、初代様は次の通りお諭しくださっている。
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朝起きたなら、毎朝御神前において何分間か静座して、過去の自己を反省し、また今日なすべきことを熟考し、将来を楽しむことを習慣づけねばならぬ。

最初これが習慣にならないうちは、なかなか纒らないけれども、熟練してくると、御神前へ座るとすぐに精神が統一され、わずか二、三分で幾多の反省事項が了得せらるるようになるものである。
かくのごとく習慣づけることは、単に修養のみならず何事をするについても自然統一化され、著しく効果を収めることが出来るのである。
而して邪念邪欲を去り、自己の霊をますます磨き、その玉の光を美しく輝かすことによって、ここに神人合致の実を挙げられ、仁徳を得て幸福の道へ進むことになるのである。

(初代様お諭し「自己反省」より)
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「自己反省」によって、自己の霊を磨き、神人合致の実を挙げ、仁徳を得て、幸福の道へ進むことができる。

と説かれている。

したがって「自己反省」は、信仰者にとって大切な修行の一つと言えるだろう。

 

悲しみの過去を喜びの未来に

さらに初代様は次の通りお諭しくださっている。
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過去の不幸や、現在の苦しみを嘆いてヤケクソで過ごしていた人も、信仰を持ってみて、初めて人は不幸や悩み苦しみがあればこそ、我が身が磨かれて人となるのであって、その体験が多ければ多い人ほど、偉大なる人物となるものであるという真理が分かり、分かってみるとこれを嘆かず悲しまず、喜んで受け入れて自分を磨く材料に代え、今まで誤っていた方向を転換いたしまして、その後は悲しみの過去を、喜びの未来に造り上げ、昨日まで不幸の道を歩んで来たものが、今日から幸福の道が発見できて進むようになるものです。
(初代様お諭し「信仰は理屈や学問にあらず」より)
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信仰によって、「悲しみの過去」を「喜びの未来」に変えることができるのである。

 

自分の過去をどう捉えるか

以上の通り、今回のテーマ「自分の過去をどう捉えるか」ということを、神様の御教えに照らし合わせれば、

「過去」を苦にするのではなく、また、無かった事にするのでもなく、

信仰によって養った「感謝と懺悔」の心をもって「良き体験」として生かす事であり、

そうすれば、たとえ「悲しみの過去」であっても、「喜びの未来」に変えることができる。
ということになるだろう。

人類の歴史も、個人の歴史も、「これでもう完璧だ」とか、「何もかも終わってしまった」というような終着点は存在しない。

したがって、おごらずに、あきらめずに、「過去の体験」を「感謝と懺悔」の心をもって、「喜びの未来」のために、生かして行くことが大切なのだと思う。